先づ隗より始めよ
『十八史略』
~"私を厚遇するべきだ"
「(先づ)隗より始めよ」は、現在では「言い出した者から実行せよ」の意味で使われていますが、典拠となった話では「賢者を呼び寄せたいなら、まず隗(私)のように劣った者を厚遇せよ」という意味で使われています。
「先づ隗より始めよ」(『十八史略』)を現代語で
戦国時代、燕国では王の會(本来は「口」偏、以下同じ)が無能で、遊説家の甘言に乗せられ、臣下に王位を譲って隠居するなど乱脈な政治が行われ、混乱の極みにあった。そのすきに乗じた斉の攻撃により、會は殺されてしまった。
燕の人たちは、太子平(へい)を擁立して君主とした。これを昭王といった。昭王は戦死者を弔い、生存者を見舞い、人心の掌握に努めへりくだった言葉づかいをし、多くの礼物(俸禄)を用意し、賢者を国に招こうとしていた。しかしその効果なく賢者が集まらなかったので、昭王は学者の郭隗(かくかい)に次のように尋ねた。
「斉は私の国が乱れていることにつけこんで、攻め入って燕を打ち破りました。私は、この燕の国が小国で、斉に報復できないことを十分承知しています。そこで、ぜひとも賢者を得て一緒に国を治め、先代の王の恥をすすぐことが私の願いです。先生、それにふさわしい賢者を教えて下さい。私はその方を師として仕えしたい。」と。
郭隗は次のように言った。
そこで、昭王は隗のために新たに邸宅を造って、郭隗に師事した。そこでこのことを聞いた賢人たちが我先にと燕に駆けつけたのであった。
「先従隗始」の本文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
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中華のレトリック
紀元前四世紀末、燕(えん)では、王の會(カイ、本来は「口偏」です。 昭王の父)が宰相の子之(しし)に王位を譲り、国の秩序が大いに乱れました。この内乱状態につけ込み、斉(せい)が燕に侵入し、子之(しし)を塩漬けの刑(こちらを)にして、會(昭王の父)を殺害しました。燕は滅亡同然の状態となったのです。燕の人々は太子の平(へい)を王に立てました。これが昭王です。本文で「斉因孤之国乱、而襲破燕(= 斉は私の国が混乱しているのに付け込んで、侵攻して燕を破ろうとしている)。」と書かれています。
父を殺し、自国の大半を支配している斉への恨みは、昭王にとって計り知れないものでした。昭王は斉に復讐し恥を雪(そそ)ぐには、燕の国力を強くしなければなりませんでした。そのために賢者の力を借りようとしたのでした。そこで昭王は臣下の郭隗(かくかい)に、ふさわしい賢者を推薦してほしいと言ったのでした。
先ず、間近にいる自分を厚遇せよ
郭隗(かくかい)は、王がそうお考えなら、まず、間近にいる自分を優遇せよと言いました。そうすれば郭隗(かくかい)程度の者があれほど優遇されているのなら、自分だったら高く評価され厚遇されるはずだと思い、優秀な者たちが次々と昭王の元へ赴(おもむ)いてくるはずだと言うのです。それをたとえ話を使って弁舌巧みに説いたのです。
「死馬骨」=「郭隗」と「千里馬」=「賢士」という、奇抜かつ分かりやすいたとえ話で昭王の心を惹きつけているのです。また、たとえ話(下の問6を参照)と主張がぴったりと合うものでありました。そしてさらに、自分の才智を認めて使ってくれる君主がいるのを願っている者たちが大勢いることを、よく知ったうえでの主張でもあったわけです。
はたして、優秀な人士たちが遠くから争うように燕に集まってきました。
しかるに、現代の大陸では「頭が割れ、血を流すだろうと」と、元首が口汚くかつ下品に対象国を罵ったり脅しつけたりして、中華の伝統から外れているのではないでしょうか…
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『十八史略』とは
元の初頭(今から740年ほど前)、曾先之(そうせんし)の著。『史記』以下の十八の史書のダイジェストで、初学者向けに編まれた編年体(事件の起こった年月に従って記す形式)による通史。わが国には室町時代に伝わり、江戸自体を通じて幼年就学者のための読本として扱われ、戦前は小学校の教科書教材としても人気のあった史伝です。
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