「鞄」
橋本チャンネル
第六回馬橋映画祭出品。
原作 安部公房。
作者の安部公房とは
新潮社のサイトで次のように紹介されています。
(1924-1993)東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。1962年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。1973年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、1992(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。1993年急性心不全で急逝。 前衛的で実験的、超現実主義と言ってもいい作風。共産党に入党経験があり、マルクス主義(こちらを)が教養の一部となふっています。ただし、ライナー・マリア・リルケ(こちらを)やマルティン・ハイデッガー(こちらを)、その他実存主義(こちらを)の影響を受けていると言われ、作品群の鑑賞・解釈は一筋縄に行かない面があります。ノーベル文学賞の候補者だと言われていました(⇒『実はあの作家も!?ノーベル文学賞を「逃した」日本の文豪たち』こちらを)。
あらすじ
正直(しょうじき)そうな印象の青年が、事務所にいる「私」の前に現(あらわ)れます。その青年は、なんと、半年前に出した求人広告を見て来たと言うのです。「私」はあきれてものも言えません。すると、青年は「やはり、駄目でしたか。」と、むしろほっとしたような感じで引き返そうとします。
はぐらかされた「私」は、そんな青年を引き止めて、事情を聞きます。たまたま欠員が出て新規に補充を考えていた矢先だったからです。すると青年は「一種の消去法でここに来た。」と、かなり思わせぶりなことを言うのです。「私」が「具体的に言ってごらんよ。」と言うと青年は「この鞄(かばん)のせいでしょうね。」と、足元に置いた大きな鞄に視線を落とします。さらに青年は「鞄の重さが、僕の行先を決めてしまうのです。」と言うのでした。
問答を続けているうちに「私」は、その鞄(かばん)のことが気になっていきます。「なかみは何なの?」と「私」が訊ねると青年は「大したものじゃありません。つまらない物ばかりです。」と返します。
結局「私」は青年を採用することにし、下宿を紹介してあげます。青年が下宿の下見に行くと、そこには例の鞄が取り残されていました。「私」は何気なくその鞄(かばん)を持ち上げて歩いてみます。
気がつくと「私」は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっていました。事務所に引き返すつもりでしたが、どうもうまくいきません。普段は意識していなかった坂や石段に遮られてしまうのです。
「私」は、やむを得ず、歩ける方向へと歩いて行きます。別に不安など感じませんでした。鞄が導いてくれるのです。「私」はただ歩き続けていれば良いのです。
「選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。」
〈自由〉とは何?
安部公房は、この『鞄』で何を語ろうとしているのでしょうか。結末で「私は嫌になるほど自由だった。」とあります。「自由」ということば、「人間の歴史は自由を獲得する戦いであった。」などと言われます。
それでは、そもそも〈自由〉とは何なのでしょうか?
「何物にも縛られないこと」「やりたいことをやりたいようにできること」「誰にも干渉されないで行動すること」などなど…でも一方、「今は昔と違って自分の進む道は自分で選べるんだよ。」「君の可能性は無限なんだ。君のやりたいことをやりたいようにやりなさい。」などと言われると、むしろ、不安になったり、途方に暮れることだってあります……。
〈自由〉について考える時〈不自由〉を考えなければなりません。その二つをよくよく考えてみると、絶対的な〈自由〉も絶対的な〈不自由〉も存在しないことに気づくでしょう。不自由な〈自由〉も、自由な〈不自由〉もありえます。たとえば、ランチAからランチEまでの5種類から選べることは〈自由〉ともいえるし、5種類の選択肢を〈不自由〉とも感じることもあります。他に付け合わせのオプションが複数用意されていても、本質的には同じ。
このたとえのように、〈自由〉と〈不自由〉は相対的なものだと言えます。完全な〈自由〉とは幻想でしかなく、〈自由〉でなければならないとは、時に、幻想の〈自由〉に縛られて何も選ぶことができない〈不自由〉になることにもなるともいえます。
〈自由〉と〈強制〉
先のランチでどれを選択するのかは、予算・好み・気分・おなかのすき具合、周りの人のに合わせるなどが基準や条件になるでしょう。この基準や条件によって決定しているともいえるし、この基準や条件が行動を制約、あるいは強制しているともとらえられます。そうであるなら自由だと思っていた自分も、実はさまざまな制約の中にあり、選択の道は極めて狭いものだということに気づくでしょう。
「鞄」で扱われているテーマは〈自由〉と〈不自由〉の問題であるととらえられます。その意味で、この作品の主人公は「鞄」であるともいえます。「青年」や「私」は「鞄」の象徴する世界とのかかわりを与えられているだけであり、したがって、この作品の「青年」や「私」は読者自身の身の上でもあるわけです。作中、次のようなやり取りがあります。
「分からないね。なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか……。」
「無理なんかしていません。あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんな馬鹿なことができるものですか。」
「青年」は、いつでも「鞄」から自由になれると思っています。いつでも、あるいは、いつか、全く別の選択ができるが、今のこの行動は〈自発的〉に行っているのだ ! 「青年」が〈自発的〉だと思っていることが、実は本質的な意味で〈強制〉なのではないのか?!〈自由〉とは結局〈強制〉の別名なのではないのか?!
究極の〈自由〉
「私」は「青年」が残していった「鞄」をなんということもなしに持ち上げてみました。「ずっしり腕にこたえた」とあるからかなりの重さです。試しに二、三歩、歩いてみると、もっと歩けそうでした。こんな具合に、「私」は導かれるように歩き始めました。「青年」がそうであったように、「私」もまた「鞄(かばん)」に導かれて歩く。この時の「私」の心理は、こう説明されています。
べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。
「嫌になるほど自由だった」とは妙な表現ですよね。徹底的に何ものかに導かれるならば、あれこれと迷うことはない、不安もなければ迷いもない。とすれば、人間は徹底的な〈強制〉の中において〈自由〉なのであるとされているわけです。また、先のランチの例の「予算・好み・気分・おなかのすき具合」は、時代、教育、体力、能力、性格、他者からの期待などと置き換えてみることができるでしょう。私たちはそれら所与の条件によって選択させられ、行動させられ、生きさせられているといえるでしょう。その意味で、私たちは作中の「私」なのではないのでしょうか…! 選択させられている〈自由〉…!(「もっと 深くへ ! 」のa.Q5例解も参照を)
また、冒頭に『「君の可能性は無限なんだ。君のなりたいものを目指していいんだよ。」などと言われると、むしろ、不安になったり、途方に暮れることだってある』と述べたが、「鞄」を持つことで「青年」も「私」も、選択しなければならないという束縛から自由であるともいえよう。また、先に述べた『「何物にも縛られないこと」「やりたいことをやりたいようにできること」「誰にも干渉されないで行動すること」』という意味での自由は幻想であり、絶えず何ものかに選択させられているのだもと言えます。
「鞄」の重さ
私たちには、特定の時代、教育、体力、能力、性格、他者からの期待などの条件が決定的に与えられています。これらが、私たちにとっての「鞄」なのである。人間は努力すればすべて解決できるというものではない。どんなに努力を重ねても100メートルを10秒以内で走れる人は超レアな例外でしかありません。そういう意味で、私たちは何かしらの重い「鞄」をうんこらしょと運びながら人生を生きなければならないのです。このように考えるなら、「努力」もまた重い「鞄」なのです。
この作品において、〈自由〉はあるのかないのかという抽象的な見方は出てきません。作品を読み終えて、不思議な重苦しさと、それとは反対に不思議な安堵感を覚えたなら、その読み方は誤っていないのでは…。作者はきっと、私たちの人生にある何もかもひっくるめて「重い」と表現しているのですから。「鞄」は重いほど〈自由〉なのであって、当然二つの読後感が混在してもおかしくはないわけです。
「鞄」の象徴するもの
以上を総合して考えると、「鞄」は、人間に与えられた条件や制約、もっと端的に言えば、〈運命〉であるともいえるし、〈自由〉であるともいえるし、また、〈自分自身〉の象徴でもあるともとらえられます。
これとは別の解釈もいろいろ考えさせる作品だと思います。
問1 解答例…採用される可能性はまずないのに応募してきたことにあきれた気持ち。
(「ぬけぬけと」とは、ずうずうしいさま、間が抜けているさまが辞書上の意味。「ぬけぬけと嘘をつく」「ぬけぬけと無実を主張する」などと使う。ここでは、普通の人ならするはずがないことを平気にすることへの「私」の感想として使われている。直後に「いくらなんでも非常識すぎる」とある。)
問2 一種の消去法 (6字)
(直後の「青年」のセリフ、5~10字という制限。)
問3 あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。
(三つ後の「私」の言葉「わからないね。なぜそんなに無理して、鞄を持ち歩く必要があるのか……」の直後に、「青年」が答えている。)
問4 地形に変化
問5 解答例…口に出すのはためらわれるようなもの。赤ん坊の死体。
(最初に鞄が話題にされた時、「赤ん坊の死体なら…」と不気味で不吉な印象が持たれるように書かれていました。)
問6 解答例…「私」にこれから起こることを見通していること
(「遠くの風景」は未来?…、直後の「年寄りじみた笑い」とは諦観し達観した笑い?…、この後「私」に起こったこと?…からよくよく考えてまとめます。高度な問い、筋力つきます。)
問7 仲介業者(ここでは、アパートなどの貸借の仲立ちを商売にする業者。)
a.Q 解答例
1 「青年」の言動が「私」の予想と大きく違っていたから。
(「はぐらかす」とは、話の焦点をぼかしたり・ずらしたりすることというのが辞書上の意味。ここでは、採用してもらえないことに対して、がっかりするのではなく、逆に、「ほっと肩の荷を下ろした感じ」の「青年」のようすが思いがけなくて違和感のような感じをおぼえたことを「はぐらかされた」としている。辞書上と文脈上の意味から、よくよく思考してまとめましょう。筋力がアップします。)
2 「ここしかない」と選ばれたことに対して一種の満足感をおぼえたから。
(「消去法」からこの事務所を選択したという「青年」の答えに対する「私」の受け止め。本来なら「青年」の「思わせぶり」な態度や「さりげなさ」にひっかかるところであるが…。)
3 「私」の事務所が選ばれた理由が述べられるという期待が、「青年」の意外な返事によって覆(くつがえ)され(拍子抜けし)たから。
(この事務所の魅力が述べられるのかという期待・予想が裏切られたことへの失望感が書かれているか。)
4 長年の経験からなにもかも見通すことができる、達観した老人のような笑い。
(問6を参照してください。)
5 行き先や生き方を考え選ばなければならないということ(義務)から解放された自由。
(無数の選択肢から「選択」できることは「自由」と言えるが、考えてみると、絶えず多くの選択肢から選択しなければならない義務を負っていることがほんとうに「自由」なのか? ここでは逆に、「選ぶ道がなければ、迷うこともな」く心安らかだ、とされているわけです…逆説的な言い方になっています。
ここで扱った問はどれも難しい。本文をよくよく読み込んで咀嚼し、深く考えて論理的に組み立て、簡潔にまとめる。よく目にする「こうすれば楽に読解力がつく」というような宣伝に惑わされないようにしましょう。読解の王道に則(のっと)り取り組んでください。Let' Try! )
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