山月記(中島敦)~虎になってしまった男

 中島敦 

『山月記』

 ~虎になってしまった男 


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  『山月記』あらすじ

 唐の時代、李徴(りちょう)は学業超優秀、難関の国家試験に合格して官吏(かんり)になったのですが、それに満足できず詩人を志すことになりました。しかし詩人としての文名はあがらず、今度は生活のため地方の役人になるのですが、職場では、かつて鈍物(どんぶつ)と見下していた連中に部下として仕えなければならないなど、とても自尊心が許さず、ある夜発狂して行方が分からなくなってしまいました。


 監察御史(かんさつぎょし)の袁参(えんさん。「参」は別字)が勅命(ちょくめい 皇帝の命令)を帯びて商於(しょうお)という地を通った時、人喰い虎が出るからとの注意を無視して、朝早く山道にかかりまた。はたして猛虎に襲われるのですが、それは変わり果てたかつての友人李徴その人でした。

 
袁参(えんさん)は、虎になった李徴の懇願を受け入れてその告白に耳を傾けます。李徴は虎になってしまった不思議な体験から語り始め、自作の詩の伝録(聞いた話を記録すること)をたのみ、自己の性格が虎となった原因だと反省を語り、遺(のこ)した妻子のことを袁参
(えんさん)に頼むが、もはや人間の心が戻らなくなる時の近いことを告げます。


 別れを告げて去る袁参
(えんさん)一行に、虎の姿を見せて李徴は去っていきました。


【動く絵本】山月記 [San-getsu-ki]


  天宝の末年とは

 「天宝の末年」=玄宗皇帝治世の時代。

 中国語で「官本位」といわれる、役人が大きな力と権限を持ち、その力を用いてさまざまな利益や便宜を手にしてきました。役人になるには、科挙という官僚登用試験に合格しなければなりませんでした。最盛期には競争率3000倍、合格者の平均年齢は36歳、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、苛酷な受験勉強と試験の重圧に耐えられずに、精神障害に追い込まれたり自殺した人も少なからずいたといいます。唐代、進士科合格者は毎年30名ほどでとてつもない最難関だったのです。


 

  大陸

 李徴の出身地は大陸最内陸の「隴西(ろうせい)」であり、長江下流の「江南(こうなん)」の治安にあたる役人(尉)をやめて、内陸部の閣略(かくりゃく)に住まって詩人を志しました。しかし生活のため仕方なく「一地方官吏」となり、その一年後、「汝水(じょすい)のほとりに宿ったとき」発狂して行方(ゆくえ)が分からなくなってしまいました。

 そして、李徴の以前の親友袁参(えんさんが「商於(しょうお)の地に宿った」時、虎に変身した李徴と出会うことになったのです。

 物語は大陸の最奥地(隴西)、長江下流の地(江南)、大陸内陸部(閣略)というふうに具体的に設定され語られます。それぞれの地が独自のイメージや意味あいを喚起させ、それを思い描きながら読めるように書かれています。


  李徴と

 主人公は李徴(りちょう)。抜群の秀才で、若くして難関の官僚登用試験に合格して、エリートコースを歩き始めたのですが、下積みの下級の役人なんかやっていられないと思い、詩人として名をなそうとしました。協調性に欠け、自信家で、自尊心の強い尊大な性格でした。


 一方、 (えんさん。「」は別字)は李徴と同年に国家試験に合格、温和な性格で若いころの李徴の親友であり、今は監察御史(かんさつぎょし、こちらを)という高位の官僚となっています。

 

  虎に姿を変える

 李徴は、虎になってしまうなど、理由もわからず降りかかる不条理な宿命を生きなければならないのが生き物の定めだと言います。

 そして、自作の詩長短三十篇ほどを朗唱し、(えんさんに書きとめてもらいました。

 さらに、自分の性情である「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」が、自分を虎としてしまったのだと分析しました。

 最後に、現在の心境を述べた詩一篇を披露、妻子の今後の生活を(えんさんに頼んだ李徴は、次第に人間の心を失って、獣になっていく運命の自覚を告げ、一行に虎である自分の姿を確認させて、獣の世界へ去って行ったのでした。


  「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」とは

 臆病とはちょっとしたことにも恐れることで、ここでは羞恥心(恥ずかしく思う)と同義語のように用いられています。自分の詩の才能に自信を持ちきれないので、先生に教わったり、詩を志す友と交際したりして才能を磨くことを避けるなど、自分が傷つくことを過敏に恐れる心理です。

 自尊心とは、自己を尊び、他者からの干渉を受け入れない心理で、ここでは尊大(偉そうにすること。傲慢なこと)と同義語のように用いられています。前段の臆病羞恥心とは裏腹に自分の才能に自信があったので、お高くとまり、才能無き平凡な者とみなす人たちを見下していた心理です。 

 「尊大な羞恥心」は「臆病な自尊心」ともいわれていて、本来は相反するものが結合された言い方と言えます。


  心中の猛獣とは 

 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」行動としてはいずれも「人と交わりを避け」ることとなっています。自信(「己の珠なるべきを半ば信ずる」)と自信の無さ(「己の珠にあらざることを惧れる」)という相反する気持ちが、李徴の心の中でせめぎあっていて、その内面の現われが「人との交わりを避け」るという行動をとらせたのだというのです。「相反する気持ち」=「猛獣」というふうに理解されます。それが自分を、そして、他の人たちを傷つけることともなっていく。李徴は次のように語っています。

 人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
 己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

 これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えていったのだ。

  自意識の悲劇

 
李徴と同じような相反する自意識は誰もが持っているといっていいのではないでしょうか?…たとえば、自分は友達には受け入れられているよね…でも、ほんとは煙たがれている気もするんだけど…とか、相反する裏腹な自意識に戸惑ったり苦しんだりすることがあります。

 普通はこの自意識と現実との折り合いをつけながら生きています。でも、何らかの理由で、この自意識が現実とうまくキャッチボールできなくなると、たとえば李徴と同じように、私たちを、根拠の薄弱な自信過剰(=思い上がり、年寄りに多く見られますや、その逆の過大な自信喪失というエキセントリック(普通から著しく異なっているさま)な心理に陥(おちて)らせ、時としてアブノーマル(異常、病的なさま)な行動をとらせることもあります。そして、ついには自分を損(そこ)ない、身近な人々を苦しめることだってあります。そういう意味で、自意識は猛獣のようなものだとされているわけです。この物語全体が、そんな自意識の悲劇性のメタファこちらを)となっているといえます。


 『山月記』で作者中島敦(こちらを)が、実在するはずのない怪物(元は人間の虎)を自分の内面・自意識の象徴としてとらえ、丁寧に描き出していることに読者は心動かされるのではないでしょうか。また、今まで気づいていなかった読者自身の内面を発見することもあるのではないでしょうか。
 小説を読んで、今現在の自分とは異質な人間や世界や時代を擬似的に生きることで、新しい発見をしたり、内面的に成長するということが小説を読む本質だと気づかされるともいえるのではないでしょうか。

ラジオドラマ 中島敦「山月記」

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 投稿者の説明⇒【■作品紹介 夢破れ虎になってしまった男。 その深き悲しみと憂い...。 男同士の変わらぬ友情。 ■出演 ・ナレーター:出先拓也 ・袁:小林貴祐 ・李徴:柏士文(同人舎) ※劇中、使用している音楽・効果音、画像は全て著作権フリーの素材です。】


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山月記(中島敦)高校生向け演習問題 前編こちらへ。


【参考『山月記』の元ネタは

 『山月記』は、中島敦が中華で多く伝承されてきた「人間が虎になる」話に依拠し、独自の作品にしあげたものです。中島が参照したのは、唐の李景亮(こちらを)『人虎伝』とされています。こちらからご覧ください。


【参考】 中華王朝社会の特徴

 現在でも陰に陽に残り続けているとされる中華王朝社会の特徴は、「官本位」と呼ばれるもので、一人の人間が官僚となり政治権力の一部となることは本人だけでなくその者の宗族(そうぞく)に莫大な名誉と利益をもたらします。そのため宗族は、「義塾(身分などにかかわりなく、一般の子弟も平等に教育を受けられるよう、寄付金などでつくられた塾)」を開いて子弟の教育を行って宗族から一人でも多くの科挙合格者を出すことに熱心でした。宗族の一人が官僚となってやがて政治権力の一部を握ると、有力官僚となった者は宗族に様々な便宜を図り宗族の為に働くことを期待され、本人もその期待に応えていきます。官僚を引退しても地元の有力者(郷紳)として王朝の官界や地元の官僚へ影響力を行使します。そのため宗族は子弟の一人でも科挙に合格して官僚になれば、在任中と引退後を合わせて50年は安泰と繁栄を約束されたとされています。中華の影響を受けた東アジア(こちらを)ではその名残で、現代でも受験のための勉強に熱心だされています。


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