木曾の最期
(平家物語)
~日本人がそうふるまうのは なぜ ? ①
「木曾の最期」(『平家物語』)を現代語縮約で
木曾義仲(きそのよしなか)は、その日の装束として、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやおどし)の鎧(よろい)を着用し、鍬形(くわがた)を打ちつけた甲(かぶと)の紐(お)を締め、立派な太刀(たち)を腰にさげ、石打ちの矢を背負っていました。また、滋籐(しげどう)の弓を持ち、名高い「木曾の鬼葦毛(おにあしげ)」という大変大きくてたくましい馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗っていました。木曾軍は敵の中を縦横に駆け回り、主従五騎にまでなりました。その中に義仲の愛人である巴御前(ともえごぜん)も生き残っていました。そこへ、武蔵の国で評判の力持ち、御田(おんだ)の八郎師重(もろしげ)が現れたが、巴(ともえ)は師重の首をねじ切って討ち取り、東国のほうに逃げていった。義仲と共にここまで戦ってきた手塚の太郎は討ち死にし、手塚の別当は去っていきました。
義仲と兼平、二人だけになった時、義仲は
「日ごろは気にもならない鎧が、今日は重く感じられる」
と弱音を吐いた。兼平は
「お体はまだお疲れではございません。馬も弱ってはおりません。なぜ、一領(いちりょう)の鎧甲(よろいかぶと)を重くお感じになるのでしょうか、そんなことはありません。それは、味方に軍勢がいないため臆病におなりになっていらっしゃるのでございます。私、兼平一人でも、他の武士千騎がいるとお思いください。まだ、矢が七、八本ございますので、私がここで防ぎ矢を致しましょう。あれに見えます、粟津の松と申す、あの松の中でご自害ください」
と言い、義仲を励ましました。
兼平は一人で敵の中へ駆け入り、多くの敵を殺傷しました。一方、義仲は粟津の松原で、馬が深田(ふかだ=泥深い田)に足を取られて討たれてしまいました。主君の最期を見届けた兼平は
「日本一の勇猛の武士が自害する手本を見よ。」
と言い、刀を口にくわえて馬から飛び落ち、自刃して果てました。
木曽の最期(平家物語) 原文/現代語訳はこちらへ。
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義仲・兼平・巴について
■ 木曾義仲(きそのよしなか)とは、木曾(長野県南西部)の山中で成人した源義仲(みなもとのよしなか)のこと。1180年、以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨(りょうじ。皇太子・皇后の命令)を奉じて挙兵しました。平家の大軍を撃破して、1183年には京都に入りました。「連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇(ごしろかわほうおう)と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝(みなもとのよりとも)が送った源範頼(みなもとののりより)・義経(よしつね)の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。」(ウィキペディアより引用)。「朝日将軍」と称(たた)えられていた。
■ 今井兼平(いまいのかねひら)とは、その父は木曾(源)義仲 の養父で,今井兼平は義仲とは乳兄弟(ちきょうだい。意味はこちらを)ということになる。1180 年9月,義仲の挙兵時から側近として活躍,木曾四天王の一人に数えられた。義仲に従って入京,1184 年1月,源範頼(のりより),源義経(よしつね)の軍が京都に迫ると,義仲の命で瀬田(せた)を守ったが敗れ,帰京の途中,粟津(あわず)で義仲に自害をすすめたのち,戦死。
■ 巴御前(ともえごぜん)とは、武勇をもって知られる平安時代末期の女性。源義仲の妾(しょう)。中原兼遠(なかはらのかねとう)の娘。義仲に従って各地に転戦し功を立てた。1184 年源頼朝の命を受けた源範頼,源義経軍に宇治,勢多(せた)で敗れ,近江粟津(おうみあわず)に逃れた義仲に説得されて逃げ延び,のち尼となり,越後に移り住んだと伝えられる。
美しい女性であり、かつ、武勇にも卓越し戦(いくさ)に帯同するキャラクター、国文学の物語にもまれな登場人物、興味惹(ひ)かれます。
巴御前(ともえごぜん)の雄姿
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木曾の最期
もはやこれまでと悟った今井兼平は、弱音をはく主君源義仲を励まし、乳兄弟(ちきょうだい。意味はこちらを)の主君に対して深い思いやりと礼節を尽くして、厳しくしかも冷静な態度で、自害をして立派な最期(さいご)を遂げるよう説得します。義仲と兼平のようなあり方が、武士と君臣の典型として、また、理想として語られ、平曲を聴いた聴衆もそう受け取って感銘を受けていたのでしょう。武人と君臣のあるべき在り方として影響を与えていったといえます。
これと同趣のストーリーが、浄瑠璃・歌舞伎などの演劇や、講談などの語りものや、小説などの読みもので繰り返し語られ、武士道の源(みなもと)となり、また、潔(いさぎよ)さを尊び世間に恥じることはできないと考えるようになったようです。さらにその発展形として、個人的な希望より周囲からの期待を優先させるとか、自己主張より協調を重んじる(同調圧力が強い)とか、公衆道徳がかなり遵守(じゅんしゅ)されているなどの、日本人全体の行動規範の源ともなっていると考えられます。
『平家物語』とは
鎌倉時代中頃までに成立した軍記物語。作者は未詳(みしょう)。
平家の覇権(はけん)が確立したころから、壇ノ浦における平家の滅亡を経(へ)て、建礼門院(けんれいもんいん)の往生(おうじょう)に至る平家一門の興亡に焦点を合わせて描かれています。合戦譚(たん)や恋愛譚、説話や主要人物のエピソードが織り込まれ、これにこの時代特有の因果応報の仏教思想や儒教思想がからみあって、一大人間絵巻をくりひろげています。
盲目の僧形(そうぎょう)をした琵琶法師と呼ばれた芸人によって語られた語物(かたりもの)。琵琶によって『平家物語』を語ることを平曲といいます。
合戦(がっせん)の場面は簡潔で力強い調子の和漢混交文で、情緒的な場面では流麗な七五調の文体でというように、場面に応じて巧みにかき分けられている。また、対句表現や擬態語・擬声語の多用など、平安時代とは異なる語法が随所にみられる。平曲とはどういうもの?
【動画】琵琶演奏「祇園精舎」
〜伝統音楽デジタルライブラリー
ずいぶんスロー・テンポだなと思いますよね。むしろ、現代が映像も、人々の話し方や動作も、そもそも、時間の流れ方が早すぎるのではないでしょうか。「コスト・パフォーマンス」とか「◯◯の最適化」とか、結果を効率的かつ短時間に求める産業社会、そのことを可能にする科学技術の進歩と社会システムが背景としてあるのでしょうか?
現代の饒舌(じょうぜつ)すぎることば、鮮明で高速度で切り替わる映像に、中身が伴っているのかと疑問に思うこともあります。
動画どころか画像などもちろんなく、文字を理解し高価な紙に書写された書物を読めるのはごくごく例外的な人であった時代、琵琶法師が琵琶を奏でながら語ることば(平曲)を聴きながら、ことば一つ一つに集中し、想像力をはたらかせ、風景や人物や出来事をありありと思い浮かべ、自分もその場面に生きているかのように聴き入っていた、名もなき人々。そんな人々にできるだけ近づいて、その人々自身を体験するように読むと、「平家物語」をより深く味わうことができるのではないでしょうか。
中華=「項王の最期」との違い
中華に、同じようなシチュエーションで「項王(こうおう)の最期」があります。秦滅亡後(紀元前206年)覇(は)を争った項羽(こうう 項王)と劉邦(りゅうほう 沛公)の抗争については、高校漢文で必ずと言っていいほど原文でふれられます。また、歴史好きは、各種の小説や歴史書で詳しく知っています。しかし、「項羽の最期」の次の個所はなぜだかカットされているものが多いようです。項羽が「自刎而死(自分で首を刎ねて自決)」したあとです。司馬遷の『史記』、次は高校上級相当漢文、漢字が得意な人は訓読できるでしょう。
王翳取其頭,餘騎相蹂踐爭項王,相殺者數十人。最其後,郎中騎楊喜,騎司馬呂馬童,郎中呂勝、楊武各得其一體。五人共會其體,皆是。故分其地為五:封呂馬童為中水侯,封王翳為杜衍侯,封楊喜為赤泉侯,封楊武為吳防侯,封呂勝為涅陽侯。
口語訳すると、
王翳(おうえい)がその首を取ると、その他の騎兵が揉み合いになりながら項籍(項羽)の死体に群がり、(味方)数十人が互いに殺し合った。最終的に、郎中騎の楊喜(ようき)、騎司馬の呂馬童(りょばどう)、郎中の呂勝(りょしょう)、楊武(ようぶ)がそれぞれ一体を手に入れ五人がともにその体を合わせてみると、すべて是(まさしく項羽の死体)であった。故にその地を五つに分割して呂馬童(りょばどう)は中水(ちゅうすい)侯、王翳(おうえい)は杜衍(とえん)侯、楊喜(ようき)は赤泉(せきせん)侯、楊武(ようぶ)は呉防(ごぼう)侯、呂勝(りょしょう)は涅陽(でつよう)侯に封じられた、つまり、領地を与えられそれぞれ地の支配者となることができたというのです ! ! ! !
ということになります。
自害した項羽の遺体を、なんと、劉邦方の兵は仲間同士で殺し合いをして奪い合い、結局、五分割したが、五分割された遺体は合わせてみると項羽のものに間違いはなかった。それを持ち帰り、それを手柄(?)とされて領地を与えられ大名(領主)になることができたのだと書かれているのです。漢王朝の正式の歴史書「史記」に記録されているのです。これは、先の「木曾の最期」に比してどういう思考法や行動原理の源泉になると考えればいいのでしょうか? 「項王の最期~天の我を亡ぼすにして(史記)」はこちらから記事にリンクできます。
動乱が常であり(現代でも年間20~30万件の暴動が発生しているそうです。こちらへ。)、かつ、敵の手に落ちたら、数万数十万人が住む城郭都市の中では、虐殺、略奪、レイプ、拉致(農耕奴隷や歩兵などにするため)などが当然の常識であった大陸の常識と、穏やかな気候と食糧事情に比較的恵まれていた島国のそれとは異質だなと思わされます。
☆海戦平家物語「能登殿の最期」はこちらへ。
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【参考動画】義仲の里
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「木曽で養育され成人となり、当地で平家打倒の旗挙げをし、倶利伽羅の戦いで平家軍に圧勝、上洛した木曽義仲ゆかりの地、長野県木曽町(日義村)に行ってきました。」(Youtube概要欄、動画制作者の記述)
木曽の最期 現代語訳朗読
(尾崎士郎訳「平家物語」巻九 木曽の最期は29:23から開始)
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