梓弓
(あづさゆみ)
「伊勢物語」
~すれ違いによる悲しい結末
あらたまの年の三とせを待ちわびてたゞ今宵こそ新枕すれ
〈三年という長い間、待ちわびて(それでもお帰りにならないので)ちょうど今夜、(ほかの方と)結婚することになっているのですよ。〉
と言って家の中から男に差し出したので、男は
梓弓ま弓つき弓年をヘてわがせしがごとうるはしみせよ
〈梓弓・真弓・槻弓と、(弓にはいろいろあるように、私たちの間にも色々あったが)長年の間私が(あなたを愛)したように、(あなたは新しい夫を)大切に愛しなさい。〉
と言って、立ち去ろうとしたので、女は、
梓弓ひけどひかねど昔より心は君によりにしものを
〈(あなたが私の心を)引いても引かなくても、昔から(私の)心は(いちずに)あなたに寄り添っていましたのに。〉
と言ったが、男は帰っていってしまった。女は、とても悲しくて、(男)のあとについて追っていったが追いつくことができないで、清水が湧き出るところに倒れ伏してしまった。(そして)そこにあった岩に、指の血で書き付けた歌、
あひ思はでかれぬる人をとゞめかねわが身は今ぞきえはてぬめる
〈(私がこれほど恋しく思っているのにあなたは)ともに思ってくださらないで、よそよそしくなってしまった(そのいとしい人)を引き止めることができなくて、私の身は今にもすっかり消えて(死んで)しまいそうです。〉
と書いて、(ほんとうに)そこで死んでしまったのだった。
愛と死
夫は女の歌にその場の事態を察しました。夫にしてみれば、決して女に不誠実ではなかった。女と暮らせる見通しも立つようになって戻ってきた。しかし、三年放っておいたのは事実だ。女は今夜から新しい生活に踏み切ろうとしている。夫は祝婚(しゅくこん)の歌を残して、自分は退(しりぞ)こうと決心しました。
梓弓(あづさゆみ)ひけどひかねど昔より心は君によりにしものを
ここでの「男」は、設定から在原業平とは関係がないお話しです。
ここでも、初期の日本語散文らしさを感じさせる、飾り気がなく初々しく抒情的な文章で書かれています。また、和歌が物語の中核となっているのも特徴です。
「伊勢物語」への道
日本語は文字を持たない言葉でした。平安時代の初期(1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情や情景の文字表現ができるようになっていったのです(万葉仮名は除く)。このようにして、かなや漢字交じりで書かれる物語という新しい文学に発展していきました。
文学史的には、こうして、架空の人物や事件を題材にした〈作り物語〉(「竹取物語」など)と、歌の詠まれた背景についての話を文字化した〈歌物語〉(「伊勢物語」)の二つが成立したとされています。
「伊勢物語」は、初め在原業平(ありわらのなりひら)の家集を母体として原型ができ、その後増補を重ねて、今日の形になったようです。
在原業平になぞえられる主人公「昔男(むかしおとこ)」の生涯が、一代記風にまとめられています。高貴な出自で、容貌美しく、色好みの評判高く、歌の才能に恵まれた人物の元服から死までのエピソード集です。ただし、業平とは考えられない男性が主人公の段もあります。この「梓弓」も男性の設定から業平とは関係ない段です。
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