荊軻
「史記」
~ 始皇帝暗殺
荊軻(史記)始皇帝暗殺 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ。
秦王暗殺序章
今から2200年以上前の事件について書かれたもの。燕(えん)の国の太子(王位を継ぐ人)に丹(たん)という人がいた。このままでは自国の燕が強国の秦(しん)に滅ぼされてしまうと心配し、秦王(しんおう=始皇帝)を暗殺することを計画した。刺客(しかく 暗殺者)として選ばれたのは、衛(えい)の人で、燕に移住していた荊軻(けいか。こちらを)という人物であった。太子丹は身分の差を捨てて荊軻(けいか)を厚く待遇し、秦王暗殺という大事を打ち明けたが、荊軻はその丹への義侠心(ぎきょうしん)から、その依頼を快く引き受けたのでした。
秦王暗殺の依頼を受けた荊軻(けいか)は、用心深い秦王に謁見(えっけん)するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃(ひよく)な土地である督亢(とくごう)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、秦王が提案した軍の少数精鋭化に対し諫(いまし)めたために、その怒りに触れ一族を処刑され、本人は燕へ逃亡してきていた樊於期(はんおき)の首を差し出すこと。これをすれば秦王も喜んで荊軻に会うだろうと太子丹に提案するが、丹は領地割譲(りょうちかつじょう)はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断(ことわ)った。しかし、丹の苦悩をおもんばかった荊軻は直接、樊於期(はんおき)に会い「褒美(ほうび)のかかっているあなたの首を手土産(てみやげ)に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと(そなたの)無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期(はんおき)は復讐のためにこれを承知して、自刎(じふん)し己の首を荊軻に与えた。丹は暗殺に使うための鋭い匕首(あいくち。音ではヒシュと訓む。)を天下に求め、ついに(秦王を暗殺するため、)伝説的な刀匠徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。
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秦王暗殺あらすじ
太子丹は鋭い匕首(あいくち)を手に入れ、これに猛毒をしみこませ、試し切りをさせるとその威力はすばらしい効き目であった。その匕首が荊軻(けいか)に与えられ、燕国の勇士秦舞陽(しんぶよう)を介添え役として秦王暗殺へ出立(しゅったつ)した。
荊軻(けいか)はとうてい生きて帰れないと決心する。太子丹や人々は白装束で見送った。易水(えきすい 河北省を流れる河)のほとりまで来ると親友の高漸離(こうぜんり)は筑(ちく)を弾(ひ)き、荊軻はこれに唱和して歌を作り、悲壮な思いでうたった。人々は涙を流し、二人は出立したのであった。
荊軻らは秦に到着。荊軻は秦王の寵臣(ちょうしん。主君から重用される家臣)蒙嘉(もうか)に高価な贈り物をして燕王に謀反心(むほんしん)が無いととりなしてもらい、手土産(てみやげ)として樊於期(はんおき)の首と督亢(とくごう)の地圖(ちず)を持参したことを告げる。秦王は大いに喜び、鄭重(ていちょう)に迎えた。ところが秦王の前に出た秦舞陽(しんぶよう)は威光に圧され震え上がる。
秦王は荊軻(けいか)に督亢(とくごう)の地圖を持ってくるように言いつける。地図の中には匕首(あいくち)が隠されていた。秦王が地図を広げていくと、中から匕首(あいくち)が出てきた。荊軻はその匕首(あいくち)を取り秦王を刺そうとする。刀は届かず、秦王は驚いて逃げ惑う。荊軻は追い回す。衛兵を呼ぶには距離がありすぎる。すると侍医の夏無且(かむしょう)が手元の薬袋を荊軻めがけて投げつける。やっと剣を抜いた秦王は荊軻の左股(ひだりもも)を斬る。荊軻はその場に倒れる。荊軻は匕首(あいくち)を秦王めがけて投げるが当たらなかった。ここについに秦王暗殺計画は失敗し、荊軻は側近によりとどめを刺されたのであった。
中華の任侠
情を施されれば命をかけて恩義を返すことにより義理を果たすという精神を重んじ、法で縛られることを嫌った者が任侠(にんきょう)に向かったとされます(こちらを)。中華は古来、面積が広大で異なる言語・民族が混在していて治安が行き渡らず、また、地方官僚の暴政に苦しみ、さらに、馬賊などの襲撃などもあり、任侠には庶民の生活を守ってくれる正義の味方という性格がありました(こちらを)。
燕(えん)の国の太子丹(たん)に見込まれ、かけられた恩情に心から感謝し人生意気に感じて命をかけて行動する荊軻、任侠の人と共通するともとらえられます。
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『史記』とは
前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。紀元前90年ころ(今から2100年以上前に)成立。
宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷(しばせん)自身が各地の古老(ころう)から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。
帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝(れつでん)などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷(しばせん)が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。
『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、わが国でも文学作品としてもながく読まれてきました。
今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。
荊軻(史記) 解答(解説)
A
問1aたちどころに(副詞的に使われた場合の訓読、頻出します。)
bゆえんの(頻出する熟語。)
問2 ②ともにともにせん(「與」は副詞的に直後の「倶」を修飾、ともニと訓む。「倶」は動詞と使用されていて、ともニスと訓む、ととらえます。)
問3 ①秦舞陽を副と為さしむ( 令AB→使役→AをもつてB〈せ〉しむ、「令」はひらがなで。)
③未だ來たらざるに(「未」は再読文字→未だ…ず )
④豈に意有らんや(「豈」はあニと訓み、疑問反語。「哉」はひらがなで書く。)
⑤何ぞ太子の遣はすや(「之」を倒置された「遣」の目的語ととらえ「何ぞ太子之を遣はすや」とも。)
⑥請ふ辭決せん(「請ふ…〈せ〉ん・よ」の願望、…シテホシイ・シタイ・シテモイイカの意。「矣」は捨て字ととらえる。)
B
問1 ほとり
問2 目をいからすこと(「瞋」はいかル・いからスと訓み、かっと目をむくこと。「瞋目」で、「目を瞋〈いから〉す」とか「しんもく〈ス〉」と訓む。)
問3 ①荊軻が秦舞陽を介添え役として、秦王の暗殺へ赴くこと。(26字)
C
問1aために bすすみ(て)
問2 ①使ひをして以て大王に聞こえしむ(使AB→使役→AをしてB〈せ〉しむ、「使」はひらがなで。「聞」=述語、「大王」=補語ととらえる。)<br>
②唯だ大王之に命ぜよ(「命」→文脈から命令ととらえる。唯(修飾語)+大王(呼びかけ)+命(述語・サ変の命令形)+之(補語))
③未だ嘗て天子に見えず(「未」は再読文字→未だ…ず。見=述語、天子=補語ととらえる。)
D
問1 a命令(文脈から)
問2 b立ち上がる c傷 d侍臣・近臣
問3 ①立ちどころに拔くべからず(不(否定の返読文字)+可(可能の返読文字)+立(副詞的な修飾語)+拔(述語・動詞))
②詔召有るに非ずんば、上るを得ず(《「非A、不B」=Aに非ずんば、B〈セ〉ず》の仮定形の句法であることに気づく。)
③王劍を負へ(文脈から、「負」は命令、負へ。)
④中らず(「中」は動詞的には、あたルと訓む。)
⑤事の成らざる所以の者は,生きながら之を劫かし必ず約契を得て、以て太子に報ぜんと欲するを以てなり
(「事所以不成者」が主語、「以欲生劫之必得約契以報太子也」がその述語。文の構造・返読文字などを考える。)
問4 司馬遷 前漢
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