宮に初めて参りたるころ
「枕草子」
~1000年前、平安女性の
「😓はずかしい😓 」
中宮(定子)に仕えたばかりのころ
至上のお方を前に恥じ入ってどうしようもありませんでした。しかし、中宮(ちゅうぐう)様のお美しさには、これほどのお方がこの世にいらっしゃっるのかと、思わず見とれてしまいました。明け方になると早くおいとましたいと思うが、なかなかお許しがなく、恥ずかしがる私をご覧になって、明かりが届かないように格子(こうし こちらを)をあげるのをおとめ下さったりなさる。やっと「夜になったら、早く(こちらへ)出仕しなさい。」という仰せをいただくことができて、私の局(つぼね こちらを)にもどり格子を上げると雪が降り積もっているのが見えました。
中宮(定子)の容姿
「かかる人こそは世におはしましけれ(これほど美しい方がこの世にいらっしゃるのか ! )」という驚きの気持ちでじっとみつめてしまうほど、「かぎりなくめでたし」と描かれています。容姿全体ではなく、「御手(おほんて)のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅色(うすこうばいいろ)」と、部分のみがとらえられているのですが、光り輝くような美しさとして、ひたすら賛嘆の気持ちでながめられています。
中宮(定子)の性格
中宮は、恥ずかしがっている清少納言に、絵などを取り出して見せて緊張を解こうとしたり、清少納言が姿を見られて恥ずかしがらないように格子(こうし❩を上げるのをとめさせたり、「夜は(こちらへ)早く参上しなさい。」と言ったりいろいろと気を配っています。新参(しんざん)の清少納言をかばっているのです。
そんな中宮に対する賛嘆や感謝や尊敬がこの文章を書かせているようです。
「宮に初めて参りたるころ」ここまでの原文・現代語訳は ⇒ 1/3
大納言尹周(これちか)の参上
そんな頃のこと、中宮(定子)様のもとへ大納言尹周(これちか、中宮定子の兄、この時は二十歳)様が参上なさった。機知に富んだ会話を交わされるお二人の姿は、物語の中の一場面かと思われるほどでした。中宮様のお美しい姿は、絵の中のありさまかと感じられ、大納言様と冗談などをかわす女房達のようすは、目もまぶしいほどでした。
風雅な会話
中宮はこんな雪の中を見舞いにやってきた大納言へ、「『道もなし』と思ひつるに」と拾遺集(勅撰和歌集)の一節を引いてあいさつと感謝の言葉を述べる。すると、大納言は「『あはれと』もやご覧ずるとて(感心な奴だとお思いになるかと思いまして…)。」と応える。〔★ここでの二人の会話は、拾遺和歌集の歌「山里は雪降り積もりて道もなし今日来む人をあはれとは思はむ」(歌の解説はこちら)を念頭に置いてやり取りされているのです。〕
古歌の教養、ものの折にかなった機才、洗練された応対は、貴族社会にあってなによりも尊ばれていました。
ただもう恥ずかしがる清少納言😓😓😓
なんと、大納言様が私のそばに近寄り、さらに、座り込んでお話しかけになるのです。私は恥ずかしくて恥ずかしくて、何もお答えできません。
ここで語られている「恥ずかしい」は、現代の私達には喪(うしな)われた感受性であり感情と言えるでしょう。
貴公子の前にいること自体がもう恥ずかしくてたまらない。「恥ずかしい(恥づかし)」は「恥じる(恥づ)」を語源とします。身をどこかに隠してしまいたいほど、相手の身分や態度や容姿や才能がすぐれているというニュアンスで使われていました。現代語では、こちらの気持ちを表す方に中心が移ったと言われています。すなわち恥ずかしいとは、本来は、対象となる人が身分が高かったり、立派すぎたり、美しくて身を隠してしまいたいような心持を表わしたといいます。相手が立派すぎることから生じる感情です。まして、相手が異性だったらなおさらです。当時、女性は異性の前に直接顔を出さないのが常識でした。現在でも厳しいイスラム世界では珍しくない(⇒こちらを)のはご存じの通りです。避けられない時は、几帳(⇒こちらを)の陰に入ったり、それでも見られそうになったら扇で顔を覆っていました。
そういう意味で、身分とか性差とか人格の優劣とか美醜の差異を認めないことを正義とする現代の私たちには、そのほんとうのニュアンスは実感できないのではないでしょうか。また、女性が姿を異性にむやみにさらさないというのも、現代とは異なります。ちなみに、(脚部の膝より上を見せる)ふつうにミニスカートを身に着けるようになって数十年しか経っていないのです(こちらを)。女性がはるか身分の高い貴公子の前で感じられる「はずかしい」は、今では理解しきれない感情ではないでしょうか……
「宮に初めて参りたるころ」ここまでの原文・現代語訳は ⇒ 2/3
大納言のからかい
大納言様は私のそばおいでになったばかりかお話しかけになり、わたくしは恥ずかしくては恥ずかしくて何もお答えできません。さらに、顔を覆っていた扇(おうぎ)さえおとり上げになるので、わたくしは顔を袖(そで)に押し当ててうつぶしてしまいます。すると、中宮様が恥ずかしいと思っている私の心をお察しになって大納言様を「こちらへいらして」とお呼びになりました。しかし、大納言様は「清少納言が自分を離してくれません。」などと、若い女性(ひと)をからかうような、私などの年齢のものには似つかわしくない冗談をおっしゃって、なおいろいろとわたくしをおからかいになるのでした。
清少納言の才媛ぶりを聞いていて、中の関白家(こちらを)から声がかかり中宮定子のもとに出仕することになったのでしょう。
だから、初めから大納言の作者への態度は親密な感じなのでしょうか。また、才女だと聞くが、一体どんな女なのかという好奇心からからかっているのでしょうか。
大納言様一人でもたまらなく恥ずかしいのに、なんと、さらに関白(藤原道隆、定子・伊周の父、関白なので最高権力者)様がおいでになる。関白様が冗談などおっしゃり、女房達は笑い興じるが、そのさまは神仏などの化身や天人などが下りてきたのであろうかと思われていましたが、宮仕えに慣れていくとそれほど不思議なことでなくなっていくのでした。
「宮に初めて参りたるころ」ここまでの原文・現代語訳は ⇒ 3/3
日本語は文字を持たないことばでしたが、平安時代の初期(1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情や情景の文字表現ができるようになっていったのです。この『枕草子』の場面、漢文ではなく和文で書かれているからこそ、千年前の中宮を中心とした生活のありようをリアルに知ることができるとも言えるでしょう。(日本語がひらがな・カタカナ・漢字で表記できるようになった事情は、こちらへ。)
また、このような千年も前、女性が文学作品を書き、しかもその作品を現代でも読むことができるのは、世界中でこの日本だけということも、教育やメディアでは言及されることが稀であり、当の日本人も知らない人もいるだけに、知っていていいと思います(「平安女流、世界の文学史上に輝く綺羅星たち!」で少しくわしく書いています ⇒ こちら )。
「枕草子」とは
現在、私たちが小説や評論とよんでいるものが、昔から存在していたわけではない事情は、『かぐや姫のおいたち(竹取物語) もっと深くへ! 』(こちらを)で少し詳しく書きました。
平安時代の初期(1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情や情景の描写ができるようになっていったのです。このようにして、かな文字で書かれる物語という新しい文学に発展していきました。文学史的には、こうして、架空の人物や事件を題材にした〈作り物語〉(「竹取物語」など)と、当時の貴族社会で語られていた歌の詠まれた背景についての話を文字化した〈歌物語〉(伊勢物語)の二つが成立したとされています。
さらに、見聞きしたことや、自然・人事についての感想・考え・評価などを自在に記す〈随筆〉として、千余年ほど前清少納言によって『枕草子』が書かれた。中宮定子に仕えた宮中生活の体験や、感性光る「ものづくし」を自在に著わした「をかし」の文学と言われている。『枕草子』も、日本人独自の感受性、ものの見方、思考の組み立て方の原型の一つとなっているといえます。
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