志賀直哉
「城の崎にて」
~生と死の境界はどうなっているの?
志賀直哉の「城の崎にて」
「城の崎にて」あらすじ
山手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした「自分」は、その後養生(あとようじょう)のため城崎温泉へ出かけた。三週間以上、五週間くらい滞在するつもりだった。
秋の城崎温泉で一人きりで療養している。「自分」は、死のことを思った。恐怖としてそれを感じるのではなく、「自分」の心は静まり、何かしら死に対して親しみが起こっていた。
ある朝、「自分」は一匹のはちが玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。「自分」はその死骸の静かさに親しみを持った。「自分」は范がその妻を殺す「范の犯罪」(こちらを)という短編小説を書いたが、今度は殺された妻の気持ち、彼女の死の静かさを書きたいと思った。
ある午前、散歩に出かけた「自分」は、首に魚ぐしを刺され、子供たちや車夫に石を投げられているねずみを見て、「自分」は寂しい嫌な気持ちになった。そして「自分」は、自身が逢った事故のことを思った。
ねずみのことがあってしばらくして、今度は「自分」が投げた石で偶然いもりを殺してしまった。電車の事故では偶然に「自分」は死ななかっただけで、死と生とはそれほど差がないのだなあと思い至った。
三週間いて「自分」は城崎を去った。それから三年以上経つが、脊椎カリエスになるだけは助かった。
的確無比な描写
次は「自分」が投げた石が偶然いもりに命中した直後の描写です。
石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時にいもりは四寸ほど横へ跳んだように見えた。いもりはしっぽを反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当たったとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。するとひじを張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。
余分な装飾や情緒を極力排除し、いもりの死に至りゆくありようがくっきりと描き出されています。まさに、日本語表現(小説)の達人と言われる作家だなと思います。同時代の作家で「痴人の愛」などを書いた、唯美志向の谷崎潤一郎(こちらを)も日本語表現の達人と言われていますが、志賀直哉と対極にある達人ではないでしょうか。
アブノーマルであること
「自分」(この小説の語り手として設定されている人物)に特に目を惹くようなことが起こることもなく、はちなどの小動物の死をめぐって目にしたこと考えたことが淡々と書かれていて、退屈だな、つまらないと思う人もいるかもしれません。
自分の死後について次のように語っています。技巧など感じさない、冷徹な想像力による高度な表現となっているのではないでしょうか。
ひとつ間違えば、今ごろは青山の土の下にあお向けになって寝ているところだったなと思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。それももうお互いに何の交渉もなく、―こんなことが思い浮かぶ。それは寂しいが、それほどに自分を恐怖させない考えだった。
こんな風に三週間、絶えず「死」についてああでもないこうでもないと考え続けるのは、かなりアブノーマル。でも、アブノーマルな感覚や思考が文学の原動力ともいえます。たとえば、見えないものを可視化してくれるような力であると考えてもよいでしょう。その観点からこの小説を読むと、生と死の境界を可視化しようとしたが、結局、その境界などないことに気づいたとも解釈できるのではないでしょうか。
生きているとは、たまたま死なずにいるのであり、意志の力とか必然性とかとは関係ない、何かのはずみで死んでしまっているのかもしれない。そんなドライで諦観的な認識が語られているのでしょうか ?
生死を因果に基づく物語とか、宗教的な加護のようなことから理解したい、私たちの潜在的な期待や願望とは対極にあると言えます。
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