「大和物語」とは
今から1070年以上前(平安時代前期)に成立した歌物語(うたものがたり。こちらへ)、作者は未詳(みしょう)。天皇をはじめ貴族、僧、女性など実在人物に関する話も多く、当時の貴族社会の話題や人間関係を知る資料としても興味深い。
月がたいそう明るい夜、「おばあさんよ、さあいらっしゃい。寺でありがたい法会をするということですから、お見せ申し上げましょう。」と言ったので、伯母はこのうえもなく喜んで背負われてしまった。男は高い山のふもとに住んでいたので、その山にはるばると入って行って、高い山の峰で、とうてい下りて来られそうもない所に伯母を置いて逃げて来てしまった。伯母は「これこれ。」と言うけれども、男は返事もしないで逃げて、家に来てあれこれ考えていると、妻が告げ口をして腹を立てさせたときは、自分も腹を立てて、このようにしたけれども、長い間母親のように養い続けて一緒に暮らしていたので、たいそう悲しく思われた。この山の頂上から、月もたいそうこのうえもなく明るく出ているのを(男は)もの思いにふけって見やり、一晩中寝られず、悲しく思われたので、このようによんだ。
わが心・・・私の心を慰めることはできない。更級の姨捨山に照る月を 見ていると。 とよんで、また行って(伯母を)迎えて連れ戻った。それからのち、この山を姨捨山といった。(姨捨山を引き合いに出して、歌などに)「慰めがたい」(ことの縁語に用いる)というのには、このようないわれがあるのであった。
自立的生産能力を失った老人を扶養するのは人類にのみみられる現象で、ときにはそれが社会の負担となる。とりわけ、キャンプからキャンプへ移動を繰り返しながら食糧を求めていく採集狩猟民にとっては、食糧事情や移動の条件が悪いときには、老衰した老人を抱えることは全体社会の生存にとって脅威となりかねない。そうした状況の下で、老人はしばしばキャンプ跡に置き去りにされたり、自らだれにも告げずに集団を離れたり、あるいは集団によって自殺幇助(ほうじょ)の手段がとられたりした。
しかし、そうした社会でも、すべての老人が遺棄されるのではなく、肉体的には衰弱しても社会の安定と福祉に貢献しうる者は高く評価された。たとえば、病気治療のための呪術(じゅじゅつ)に詳しい老人、皮なめしの技術に秀でた老女などは社会の有用な一員として機能した。
日本にもこれに似た習俗は、信州の姥捨山伝説(うばすてやまでんせつ)など、広く全国的に伝えられている。伝説の内容は二つに大別され、一つは、遺棄された老人の知恵で数々の難問を解くことができた話、もう一つは、棄(す)てに行くルートを老人が覚えていて立ち戻ったり、あるいは棄てようとする人に帰り道を教えてやる話である。いずれにも共通していえることは、老人のもつ長い経験からくる深い知識はかならず社会の役にたつという教えであり、民話、伝説の形で老人の存在価値を諭しているといえる。[片多 順]
心を照らしだす月の光
冒頭に、男とその育ての親である「をば」の愛情が描かれています。ついで、突然「この妻の心…」という妻の性格設定がなされ、いきなり本題に入る。男が「をば」を捨てようという気持ちになったのかということを性格の悪い妻の言動を通して描いています。性格が悪いというだけではなく、「をば」とのつきあいの浅い妻の中傷を何度も聞かされるとそれを信じてしまうのが悲しい人の性(さが)ということなのでしょうか。男は「をば」をだましてまでして捨てに行ってしまったのです。しかしその時点で男が無意識のうちに後ろめたさを感じていたことは「逃げて来ぬ」という表現から明らかです。
冷静になった男の心に、自分を親に代わって育てでくれた「をば」に対する本来の愛情がよみがえってきます。「この山より、月もいと限りなく明かく出でたる」光景がそれを促し、男は一晩中自分の心を澄み切った月の光で照射し続けたことになります。このように「をば」を捨てるという代償を払うということによって、初めて男は「をば」に対する動かしがたい愛情を深く認識したということになります。
大和物語「姥捨」は、そういうコンテクストで「わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て」と詠まれたのだとしているのです。
大和物語「姥捨て」原文/現代語訳はこちらへ
木曽の最期(平家物語)~日本人がそうふるまうのは なぜ ?はこちらから
富嶽百景(太宰治)1/2 ~人々との出会いはこちらへ
荊軻~始皇帝暗殺(史記)はこちらへ
臥薪嘗胆~すさまじい怨恨の連鎖(十八史略)はこちらへ
コメント
コメントを投稿