あこがれ/物語が読める京へ !
(更級日記)
~薬師仏(やくしぼとけ)様が
かなえてくれた !
「物語が読める都へ ! 」(更級日記)を現代語で
京へ帰れる !!!
東海道の果ての常陸国(茨木県)よりも、もっと奥の方で生まれ育った人(そんな私)は、どんなにか田舎じみていたであろうに、そんな私がなぜ思い始めたのだろうか、世の中に物語というものがあるということだが、その物語をどうにかして見てみたいと思い思いして、手持ち無沙汰な昼間や宵に起きている時などに、姉や継母(ままはは)などといった人々が、その物語、あの物語、光源氏の物語などの内容について語っているのを聞くにつけて、ますます知りたいという気持ちがつのるのだが、姉や継母だって、私が望むようにどうして暗記してていて語り聞かせてくれようか。
ひどくじれったいので、自分の背丈(せたけ)に等しく薬師仏を作って、手を洗い清めなどして、人目のないときにひそかにその薬師仏をおいた部屋に入り入りして、「私を京に早く上がらせてください。京にはたくさんある物語ございますそうですがそれを、すべて読ませてください。」と一心不乱に額(ぬか)づいてお祈り申し上げていたところ、13歳になる年に、京に上ることになって、9月3日に門出の儀式をして、「いまたち」という場所に移る。
長年遊びなれた我が家を、人々が外から丸見えになるほど建具などを取り外し、大騒ぎをして、やがて日が暮れる時分で、あたり一面が霧でたちこめている時分に、牛車(ぎっしゃ)に乗ろうというので、ちょっと家のほうを見やったら、人のいない折には伺い伺いして、礼拝していた薬師仏が残されて立っていらっしゃるのが目に入った、その仏様を見捨て申し上げるのが悲しくて、人知れず泣けてしまった。
物語が読める都へ !
東の果て上総(かずさ)の国(現在の千葉県中央部)で成長した私は、今思うとさぞ田舎者(いなかもの)だったでしょうが、むしょうに物語にあこがれていました。姉やまま母(一夫多妻の時代、周辺に血のつながりのない母がいるのは普通)などがところどころ語るのですが、要領をえません。だから等身大(とうしんだい)に薬師仏(やくしぼとけ)様を作って、熱心に、「京へ上らせてください」「物語を見せてください」と祈りました。すると祈ったかいがあり、十三歳の時京へ門出(かどで)することになりました。門出の日、車に乗ろうとして、薬師仏様が空き家(や)にひとり残っているのが目に入り、哀れで泣かれてしまいました。
ひたむきでロマンティックな少女時代
「あづまぢの道の果て」とは、常陸(ひたち)の国(今の茨木県)、都人(みやこびと)にとって言葉も通じない、仏教も十分布教していないような、文化程度が低い異国同然の東国(とうごく)の地。まず、そこで成長した人(作者自身)は無教養でさぞみすぼらしくあっただろうと回想しています。自分のことを「人」と書き、実際は上総(かずさ。今の千葉県中央部)の国であったのを常陸の国よりも奥の方と、あいまいな言い方をしています。物語風に書こうとする意図があったのでしょう。
そんな少女が物語にあこがれていて、姉・まま母から物語の断片を聞くにつけても、ますます読みたい気持ちがつのります。現代のようにアニメや動画のような娯楽のない時代です。作者は薬師如来の仏像を作って(紙のようなものでか、あるいは、親などに本格的な仏像を頼んだのか?)物語が手に入る京に帰れるよう祈ったかいがあり(と作者は思っている)、十三歳の九月三日に京に向かって門出します。門出の日、車に乗ろうとして、後にする空き家に薬師仏が見えます。置き去りにする哀れさで泣かれてしまったと述べられています。晩年になってもはっきりと記憶に残る光景だったようです。
物語へのあこがれる経緯や、薬師如来の仏像を残していく悲しみなど、単純ながら息の長い文章が、ロマンティックな少女の、果てしなく続く夢幻的な心境を説得あるものとしているように思います。
これから都(京都)への旅の記録、すなわち、紀行文となりますが、多く虚構が含まれているにしろ、50歳代の作、その記憶力と想像力に驚嘆してしまいます。
あこがれ/物語読める都へ ! (更級日記)原文/現代語訳はこちらへ
作者は菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。平安時代、『源氏物語』成立の50年後位に成立。作者(菅原孝標女)が、その晩年(50代前半)に、少女時代の回想で始まり、成長して宮仕(みやづか)えをし、結婚をし、親しい人と死別するなど、女性としてたどってきたさまざまな経験を記しています。
物語と言っても、当時印刷技術はもちろんありませんでしたので、現在で言う本というものはありませんでした。物語の作者本人が書いたものや書写(しょしゃ)された物語などを読んでいたのです。綴(と)じたものを草子(ソウシ)と言い、巻物(まきもの)を巻子(カンス)と呼んでいました。富裕な上流貴族のなかには、物語などの作品を書写する女房を抱えていた者もいたようです。印刷技術はありませんでしたが、そういう経緯で現在も読むことができるわけです。
今から960年ほど前に書かれた作品です。
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