舞姫(森鷗外)~郷ひろみ主演・救いの手を差しのべてくれた相沢謙吉は良友なのか?

 森鷗外 

 『舞姫』 

 ~救いの手を差しのべてくれた

相沢謙吉は良友なのか? 

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舞姫 Die Tanzerin
前編(#1) 2009/09/20

後編(#2)動画はこの記事の最後尾にあります。

  独自な雅文体
 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきもいたづらなり。」という有名な書き出しで始まります。
 ここではまず、その冒頭の第三段落の一節に着目します。

 この恨みは初め一抹の雲のごとく我が心をかすめて、瑞西(スイス)の山色をも見せず、伊太利(イタリ)の古跡にも心をとどめさせず、中ごろは世を厭(いと)ひ、身をはかなみて、腸(はらわた)日ごとに九回すともいふべき惨痛(さんつう)を我に負はせ…

 流麗な和文に、「惨痛(さんつう)」「腸(はらわた)日ごとに九回す」等の漢語・漢文訓読体、「この恨み」を主語にした擬人法に見られる欧州語風修辞が混然一体となった独自な文体で書かれています。

 新しい時代の物語と抒情が今まで存在しない文体を創りだして書かれています別の言い方をすると、この独自な文体が読む者を独自な世界に引き込んでいきます



  難解な文章か?

 「舞姫」は明治23(1890)年に雑誌「国民の友」に掲載されました。現代の平均的な日本の人たちには、用語も言い回しも文体も抵抗感を感じるのではないでしょうか。でも、当時、この雑誌は日本人の平均以上の教養のある人を読者に対象にした民間雑誌です。当時の人は現代の私たちより文章を読む力のレベルが高かったのでしょうか。


 七十余年前、日本が先の大戦に敗北し、アメリカ軍は勝利者としてアメリカ式民主主義を日本に移植するためさまざまの施策を実現させようとしました。
 国語の表記については漢字ひらがなカタカナローマ字の4種類もの文字を使い分けていること、そし数千に及ぶ漢字(大修館書店で出版されている「大漢和辞典」では、約五万字の漢字が記載されています)を使用し、さらにまた、一つの漢字を複数に訓み分けていることはアメリカ人の理解の及ばないものでした。言われてみると、日本語の文字表記は複雑をきわめています。語彙文法的規範の上に、日本語文字表記はかなり厄介です。大多数の人は忘れてしまっているでしょうが、私たちは、漢字書き取り試験等、学校で気の遠くなるような努力をさせられていたのです。Wikipediaには次のように書かれています。

 GHQ内部には「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と考える者がおり、1948年(昭和23年)にはGHQのジョン・ペルゼルによる発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が持ち上がった。予備調査として正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年(昭和23年)8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7000人を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率は非常に高く、漢字と識字率には関係がないことが証明された(全記事こちら「概説」を


 このような経緯があって、使っていい漢字を制限する当用漢字という結論にもなりました。
 同時に、誰が読んでも理解できるような平易な表現がよいという風潮にもなっていきました。
 その結果、親子の手紙のやり取りもちぐはぐになったり、少し前の時代の小説・評論・論文がまともに読めなくなったり、学問の世界でも先人の研究文献が正確に読めなくなったりして現代に至っているわけです。

 戦前の教育を受けた人は、小学校卒の人が、大卒も多い現代の人より、難度の高い文章の読み書きの能力(英語ではリテラシーと一単語で表せます。)が高いのではと言う識者もいます。ちなみに、国文学の研究で高名なドナルド・キーン(2019年没⇨こちら)さんは、戦争中日本兵捕虜の取り調べをしていて、日本兵捕虜の下級兵士さえ、その多くが手帳に日記を書く習慣があったり、ポエム(俳句・短歌)を創作しているのに驚いたと記しています。今でも、大陸·半島発の、日本兵は野蛮で残酷だったと強調するステレオタイプ(⇨こちらな言説が受けているようですが…。

 アメリカは250年の歴史しかなく、26文字で表記できるイギリス語を公用語としている国です。2000年以上の歴史を有し、韻文・散文とも記録が残っているだけでも1000年以上の高度の表現史を持つ我が国が、そのような国の指導を受けなければならなかったのです。より微妙なことより深いことを表すには多種多様な語彙文体とその表記法を必要としますが、それを操(あやつ)る能力の多くを失ってしまいました。戦争に負けるということは、目に見えないところでも深刻なダメージ負うことになると思います。

  意表を突く書き出し

「冒頭」にもどります。

 「石炭をばはや積み果てつ。」という意表を突く書き出し

 「五年前」と「こたび」を文章を書くという観点で対照させ、「こたび」文章が書けない理由を「ニル・アドミラリの気象」でとモダンな外来をまずあげてそれを否定、次に、「我と我が心さえ変わりやすき」とありえそうなことをあげてそれを否定、最後に「人知らぬ恨み」とする運び方。

 また、「この恨み」を語りながらスイスからイタリアと訪れ、イタリアの港から出航しセイゴン港に停泊し帰国の途上にあることを同時に語ることとなっています。このように、心境と旅程と時間の経過を複層的に重ねて巧みに書かれています


  『舞姫』の読み方、まちがっていませんか ?

 重く深刻そうな印象が強い。国家や組織や家族制度といった封建思想に膝を屈するしかない個人主義・近代的自我の宿命という近代日本の課題というふうに読まれてきました。ここまでだったら、進歩主義者リベラリスト好みの感想で終わってしまう。間違った読み方とはいえませんが、このブログでは、別の観点から “ もっと、深くへ  !


 明治20年代の人々にとっては未知の、最先端の文化咲き誇る欧州大都とそこの風景・街並み・人・生活・文化を描こうとしたのであり、また、読者はその異国趣味を楽しんでいたのでしょう。
 また、「女優と交はる」ことを口実に免官されるが、実は、国家や官僚組織にとって豊太郎のような独立の思想を持つ者は危険分子とみなされたのだというドラマ仕立てで豊太郎とエリスの悲劇を描き、読者もエンターテイメントとしてその展開を楽しんでいたのではとも考えられます(当時は画像も普及していず、もちろん映画やテレビなどもありませんした)。そんな観点大切にして読み進めましょう。

 さらに読み進める前提としてと、今から120年以上前の我が国の人の実生活や関心・興味・感情や価値観・考え方、そしてヨーロッパのようすを、文明開化の時代の読者の立場になって、さらに、豊太郎の境遇や体験を追体験するようにして読むことですーそういう読み方が、『舞姫』をこれまでとはまったく違った小説に変貌させるかもしれません。



  豊太郎、許せない !…??

 豊太郎は自分の出世のためエリスも二人の間にできた子供も捨てて帰国するなんて許せない!という反発、現代の倫理観から当然の反応だと思います。しかし、豊太郎本人が「我が弱き心」「我が恥」「我が鈍き心」「特操なき心」と繰り返していて、この小説はその内実を描いているのですから、そのこと自体を非難してもそれほど意味はないのではと思います。
 なぜなら、犯した罪の告白を許せないと目を背け耳をふさぐのなら、告白そのものを否定することになるからです。告白された罪については深く考察することで、その告白が〈罪〉から〈救済〉に至ることだってあることを知るべきです。


 「色眼鏡で見る」という慣用表現があります。偏った物の見方。先入観にとらわれた物の見方という意です。でも、「色眼鏡で見」ないことは不可能なことともいえます。この「舞姫」だって、現代日本パラダイムの「色眼鏡」を通して読むことから逃れられないわけですから。

 この小説は今から130年ほど前に書かれたものです。
 読者は、大学に進学するなど例外中の例外の時代、スパーエリート太田豊太郎とプロシヤの舞姫=踊り子の恋愛を巡る同時代小説として読んでいました。当時の人にとって未知の、ヨーロッパ随一の首都ベルリンという都市の景観、街路の様子、人々の生活、文化など興味深いものでした。また、19.20世紀は白人キリスト教国家が、アフリカ・中東・アジアの侵略収奪を競うあう世紀でもあり、日本や清(チャイナ)などには武力で脅しつけて不平等条約(こちら)を結ばせ理不尽な利益を得ていました。

 日本は中央集権的国家の建設、憲法の制定の準備とともに、不平等条約の改訂〈治外法権の撤廃・関税自主権の回復〉も重要な外交課題でした。当時の読者はそんな明治20年代という時代を生きる人々でした。だから、可能な限りその時代に戻り、その時代の雰囲気や人々の感覚や常識や思考に近づき、さらに、エリート太田豊太郎と経験を共有するよう読む必要があるのです。(2018.10記)

  果たすべき使命

 結婚は現代でも家族婚が主流です(夫婦別姓がよいという人たちもいます)。

 しかし、家族婚といっても、男女両者の合意に基づいて婚姻が成立し(憲法24条)、幸せな家庭を築いていくものとなったのは戦後七十余年の、歴史的には例外的なあり方です。

 戦前は婚姻には家長の許可が必要で、特に格式の高い家柄では、血統存続を目的として、親が婚姻相手を決めてしまうことも多かった。幼いころに結婚相手を決めてしまう許嫁(いいなずけ)という習俗も珍しくなかったそうです。結婚とは〈〉の維持、継続、発展を第一義的な目的とするものでもあったわけです。


 そんな時代、父を早く失った豊太郎は
太田家の再興こそが最重要の使命であり、母親の悲願でもあったのです。幸い豊太郎は超優秀な能力の持ち主であるうえに、人並外れた努力を重ね、学校の成績は常に第一位を飾り、大学では創立以来の秀才と讃えられ、キャリアの国家公務員となった。つまりスーパーエリートです。この日本国家の安定・発展に身命を賭して尽くすという重い責任を課せられた存在であったのです。さらに、豊太郎は政治家になって国家経営の一翼を担おうという野心も抱いていたようです。

 そんな意味で、豊太郎が恋愛をし結婚する、しかもその相手が、異国の、しかも、踊り子とというのは、常識的には考え難いことであったわけです。


  選択

 「舞姫」とは踊り子の雅語的言い方。現代の先進国では考えにくいのですが、踊り子の多くが娼婦を副業としていると考えるのは常識であったようです。日本では「遊女」「芸妓」「芸子」「芸者」と呼ばれるものもその一種であったわけです。
 売買春は日本では1957年になって、人としての尊厳を害し,性道徳に反し,社会の善良の風俗を乱すものであるとの観点から法的に禁止されました。つまり、それまでは合法だったわけです。

 先に述べたように現在では考えにくいけれど、当時は踊り子は娼婦も兼ねる者もいる、卑しい職業とされていました(本文で「恥ずかしき業」と言われています)。そんな踊り子と豊太郎のようなエリートが、恋に落ちて結婚するなど常識的には考えにくいものでした。
 豊太郎はエリスとの関係を理由に免職されたのです。さらに、豊太郎は帰国することも断ったのです。
 
 結局、豊太郎はベルリンの貧民街でその日その日の生活費を得るためにあくせくと働こととなり、さらに、そのずば抜けた能力を生かし新国家建設のために力を尽くすこともできず、そしてさらに、太田家の再興もできないまま、海の藻屑と終わってしまう道を選択したことになります
 豊太郎に帰国の便宜を図ってくれた親友相沢がいなかったらそうなっていたでしょう。

  結末について

 「ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裏に一点の彼を憎む心今日までも残れりけり。」という結末、この小説を読んだ者に同調も批判もできない結語として、喉に刺さった小骨のように残り続けるのではないでしょうか。

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舞姫 Die Tanzerin #2
2009/09/20
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