業平と高子=通ひ路の関守
「伊勢物語」
~后候補の姫君とのはげしい恋の顛末
「伊勢物語」への道
現在、私たちが小説や評論とよんでいるものが、昔から存在していたわけではない事情は、『かぐや姫のおいたち(竹取物語)~わが国で最も古い物語の誕生』で少し詳しく書きました(こちらを)。
平安時代の初期(1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情表現や情景描写の文字表現ができるようになっていったのです。このようにして、かな文字で書かれる物語という新しい文学に発展していきました。
文学史的には、こうして、架空の人物や事件を題材にした〈作り物語〉(「竹取物語」など)と、歌の詠まれた背景についての話を文字化した〈歌物語〉(伊勢物語)の二つが成立したとされています。
「伊勢物語」の主人公は業平
「伊勢物語」は現在残っている最古の歌物語です。初期の日本語散文らしさを感じさせる、飾り気がなく初々しく抒情的な文章で書かれています。
初め在原業平の家集を母体として原型ができ、その後増補を重ねて、今日の形になったようです。
在原業平になぞえられる主人公「昔男(むかしおとこ)」の生涯が、一代記風にまとめられています。高貴な出自で、容貌美しく、色好みの評判高く、歌の才能に恵まれた人物の元服から死までのエピソード集です。ただし、業平とは考えられない男性が主人公の段もあります。
業平と高子
通い路の関守
原文昔、男ありけり。東の五条わたりに、いと忍びて行きけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たび重なりければ、あるじ聞きつけて、その通ひ路に、夜ごとに人を据ゑて守らせければ、行けどもえあはで帰りけり。さてよめる。
人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじ許してけり。
二条の后に忍びて参りけるを、世の聞こえありければ、せうとたちの守らせ給ひけるとぞ。
現代語訳
昔、(ある)男がいた。東の京の五条あたり(の女の所)に、とても人目を避けて通っていた。ひそかに通う所なので、門から入ることもできないで、子供たちが踏み壊した土塀のくずれた所から通っていた。(そこは)人目が多い所ではないが、(男の訪れが)たび重なったので、邸の主人が聞き知って、その通い路(である土塀のくずれた所)に、毎夜番人を置いて見張らせたので、(男は)出かけても(女に)会えずに帰ったのであった。そこで男がよんだ(歌)。人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ
とよんであったので、(女は)とてもひどく心を痛めた。(それを見て)邸の主人は(男の訪れを)黙認してしまったのであった。
(これは実は、)二条の后のもとへ(男が)こっそりと参上していたのを、世間の評判になったので、(后の)兄たちが監視させなさったのだということである。
歌の力
「関守(せきもり)」とは関所の番人の意。比喩的に男女の恋の通い路をはばむものを言います。二条の后高子(たかいこ)は、入内(じゅだい)する前、在原業平(ありはらのなりひら)と恋仲にあったと思われていたようです。高子(たかいこ)の兄藤原国経・基経は業平を警戒していたことになります。
この段では、高子(たかいこ)の兄二人は、后がね(后候補)の高子(たかいこ)と業平の仲を阻もうとしましたが、業平からの歌に心を痛め悲しむ高子(たかいこ)をかわいそうに思って、ある時期二人の仲を許していたと想像されます。
業平歌の「人知れぬ…」という歌と、業平と高子(たかいこ)が入内(じゅだい)する前恋仲にあったといううわさの二つによってこの段は語られていることにななりますが、業平が色好みだと思われていたことと、「人知れぬ…」の歌が物語を喚起し紡がせる力を持つていることがこの段を書かせ、説得力あるものにしているもと言えるでしょう。
伊勢物語「通ひ路の関守」(第五段)高校生用演習問題はこちらへ
「ちはやぶる 神代(かみよ)も聞かず 竜田川(たつたがわ) からくれないに 水くくるとは 」
「業平と高子(伊勢物語)~后候補の姫君とのはげしい恋の顛末 /通ひ路の関守」はこちらから。
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