無文字言語から有文字言語へ
そもそも日本語は文字を持たない無文字言語(unwritten language)でした。もっとも、文字はなくても、神話や伝説や歌は口承(こうしょう)されていました。そういうものを語り伝える語り部(べ)という専門職もありました。
漢字・ひらがな・カタカナを自在に使っている現在の私たちからは奇妙に感じるかもしれませんが、日本語を書き表す文字を持たなかったのです。現代でも文字を持つ言語は全世界で4000と言われる言語の数%しかなく、大半が無文字言語だそうです。
4世紀ころ★Chainaから漢字が伝わったとされます。私たちの先祖たちは、話すはしから消えていく言葉を書きとどめ、ずっと残しておくことができる文字という存在に出会います。その意味が分かる人たちは、現在の私たちからは想像することができないほど驚愕(きょうがく)したはずです。その驚愕(きょうがく)は、生まれて始めて、写真を目にしたり、蓄音機(ちくおんき。現在のCDプレイヤーのようなもの)の音を聴いたり、無声映画(現在の動画で音声はない)を見た人間以上だったかもしれません。
★4世紀ころの大陸は、漢族ではなく北方遊牧民族中心に興亡を繰り返していた西晋〈せいしん〉/五胡十六国〈ごこじゅうろっこく〉の時代。
万葉仮名の出現
6世紀ころ、漢字の持つ意味を捨てて、音だけを用いて日本語を表音的に表記(借字)するようになったようです。万葉仮名と呼ばれています。次は万葉仮名で表記された、二音節のやまとことばです。
夜麻 可波 伊呂 波奈
「やま」「かは」「いろ」「はな」です。漢字の意味は関係なく、一種の発音記号のように使われています。
また、次のような戯書と呼ばれるウイットに富む表記もされています。
二八十一(あらなくに)
「(あらなくに)」は万葉仮名で書かれていますが、ここでは便宜上ひらがなにしています。「二八十一」をなんと読みましたか。
「にくく(憎く)」です。「九× 九= 八十一」ですから。「憎くはない」、つまり「かわいくてしかたがない」ということになります。奈良時代の人たちも「九 九(くく)」を使っていたんだ ! ! !
そのほかにも、様々な工夫をして日本語を万葉仮名で書き表すようになったわけです。
最古の歌集『万葉集』編纂(へんさん)
8世紀の後半に、現存最古の家集『万葉集』が編纂されました。もちろん、万葉仮名で表記されています。現在、中高の教科書では漢字ひらがな交じりにされていますが。
全20巻にも及ぶ『万葉集』の中には、およそ4500首もの和歌が収められています。大きな特徴としては、天皇から防人(さきもり)・一般庶民まで身分を問わずに和歌が選ばれている点が挙げられます。和歌の前では身分は問わない、というこの姿勢は世界的にみても特異なものでした(そもそも、一般庶民が詩を作るなんて世界史上、ふつうでないことです)。
読んでおきたい小説 『令和の旗』
2019年、元号(げんごう)が歴史上はじめて漢籍(かんせき)ではなく、我が国の書物の、その最古の和歌集「万葉集」の一節を典拠にして『令和』と改元されました。
下のしのざきこういち著「令和の旗」は、『万葉集』を編纂する大友家持(おおとものやかもち)の物語。
その語り口は、宮沢賢治の童話を思わせます。「万葉集」編纂の中心人物とされる大伴家持(おおとものやかもち)の物語に思わず知らず引き込まれていきます。また、現代とはかなり異なる奈良時代の人の生活や考え方や、そして、政治や文化が自然と理解されます。『万葉集』の世界を知るために読んでおきたい一冊です。
カタカナ・ひらがなの開発
日本語を表すのに、漢字の意味を無視し、その音を利用することを借字といいます。
その借字である、安・以・宇などの草書をさらにくずして、あ・い・うなどというふうにひらがなを開発しました。また、漢字の阿・伊・宇などの一部をとってア・イ・ウなどとカタカナを開発しました(実際はもっと複雑な経緯をたどる)。
さらに、山や川という漢字を日本語のやまやかわと読み替え、チャイニーズの発音にならってサンやセンとも読むようになりました。これが漢字の訓(くん)と音(おん)です。
そしてさまざまな推移を経て、日本語を文字で書き表せるようになっていったのです。漢字を日本語として咀嚼(そしゃく)利用し、カタカナ・ひらがなを発明したことはわが国歴史上のエポックメーキングとなるものでした。
書き言葉の獲得は、日本語と日本人をそれまでとは異なる次元に飛躍させることとなりました。それは現在日本語が有文字言語であるからこそ、ふだん使っている日本語で古典や現代小説を読むことができるし、日本語で勉強もできるし高度な研究もできることを考えてみればわかることでしょう。無文字言語では、普段使っている言葉で文化を残したり、勉強したりするのは困難なことなのです。
しかし、すぐにそれらの文字を用いて複雑な風景描写や繊細な心理描写ができるようになったわけではありません。複雑なプロット、繊細な心理、さまざまなレトリックを用いた物語や小説を書けるようになるには、長い長い表現史の蓄積が必要であったのです。私たち自身が文字を覚え、幼く短い文章を書き、次第に長く複雑な文章を書けるようになるように。
こうして初めて、ひらがな・カタカナ・漢字を使って物語が書かれるようになりました。わが国で初めて書かれた物語が『竹取物語』とされています。
『竹取物語』の冒頭「かぐや姫の生ひ立ち」もっと深くへ ! へリンクできます。
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