自分・この不思議な存在2/2
(鷲田清一)
もっと、深くへ !
《第二章「じぶんの内とじぶんの外」ー第二節『わたしはなにかを排除することで〈わたし〉になる』、「過敏になったじぶんの先端」・第四節「清潔シンドロームは白鳥の歌?」》
哲学といえば、17世紀、デカルトが『方法序説』で「我思うゆえに我あり。」としたのは、哲学上の命題で最も有名なもののひとつ。『方法序説』の刊行当時の正式名称は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』であるという。
「我思うゆえに我あり。」とは、「一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない」とする命題である。コギト命題といわれることもある。
その「我」とは、「自分・この不思議な存在」の〈わたし〉。ここで、鷲田清一という現代日本の一級の哲学者が、「我」・〈わたし〉について考察している。
自分を他者から過剰に隔離する現われが清潔シンドロームである。それは異物を排除しようとすればするほど、自己防衛が必要になる〈わたし〉の衰弱した状態の反映であり、これはまた、文化全体にも言えるパラドックスなのである。
となります。
● でも、この文章、従来の「序論・本論・結論」、「起・承・転・結」の組み立てとは違う思考・組み立てがなされています。
いったん結論づけたことを敷衍(ふえん。意味はこちらを)しながら、さらに次の結論へ、さらに次の結論へ…と動的・階層的に論を組み立てていく脱構築(こちらを)タイプの文章です。
①わたしたちが意味の境界にヒステリックに固執するのは、わたしたちが意味の分割の中にうまく自分を挿入できないとき、その存在の輪郭が失われてしまう、もろく不可解な存在だからだ。
⇒②自分が身体であるのか、身体を持つのかたしかな答えを持たないことからも、わたしたちの存在がもろく不可解であることがわかる。
⇒③〈わたし〉は先験的にあるのではなく、他者との差異化において〈わたし〉であり得ている。なのに、自分の存在を他者から隔離しようとばかりする。
⇒④自分を他者から過剰に隔離する現われが清潔シンドロームである。それは異物を排除しようとすればするほど、自己防衛が必要になる〈わたし〉の衰弱した状態の反映でもある。この状態は文化全体にも言えるパラドックス(逆説)なのである。
その時点での結論、その結論を視座として次の結論に至り、その結論を視座として次の結論に至り…と展開していくことで、動的・階層的に〈わたし〉/〈世界〉/〈現在〉が論じられていく。
現代のこの日本で考察される「我」は、17世紀とはずいぶん異なるものですね。
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自分・この不思議な存在」2/2 解答(解説)
問1 ② 中核(核心・中心) ⑤ オノマトペ (擬声語・擬態語の外来語)
問2 皮膚
問3 自分と他人の意識が行ったり来たりする (23字)
問4 身体の衛生学的な管理への意識 (14字)
問5 1.アイデンティティー
2.解答例…私とは異なる他者を認識することによって、〈わたし〉は誰かを明確に知ることになること。
a.Q1 ウ
(「手をつなぐ」とは「他人の身体に触れること」の一例としてあげられている。それは、前段に「からだを内側から感知し合う」、次段に「自分が自分でなくなる」「そこを通して自分と他人の意識が行ったり来たりする」ことだと述べられていることに気づきましたか? 字数指定から「自分と他人の意識が行ったり来たりする」が解。)
a.Q2
1.解答例…他人との接触を避け、自分を守ろうとすることが、かえって〈わたし〉という存在の輪郭を失わせてしまい、ますます自分ではないものを異物として排除しなければ、〈わたし〉という存在を保持できなくなってしまうこと。(前段に、「異物をたえず摘発し続けないでは自分の存在を保持できないような、そういう〈わたし〉の衰弱した状態」とあります。〈わたし〉を固有で所与のものとして、他者=自分ではないものを異物として引き離し接触を避けようとして、かえって、〈わたし〉を衰弱させることとなっているという。問5の2も参照。)
2.ウ
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