秦の始皇帝が死去すると、各地に反秦の旗を掲げる者が続出した。その中で最も有力だったのが、項羽(こうう=項王)と劉邦(りゅうほう=沛公=漢王)である。彼らは都の咸陽(かんよう)を目指して別々に進撃、一足早く咸陽に入城した劉邦は、函谷関を閉じて項羽の軍を阻もうとした。激怒した項羽は、全軍に劉邦攻撃を命じたが、攻撃の直前、劉邦の謀臣の張良と項羽の叔父項伯のとりなしによって、両者は鴻門で会見することとなった。
沛公(劉邦)は翌朝、百余騎を従えて、項王(項羽)にお目にかかろうと鴻門にやってきた。詫びて言うには、
項王はその日すぐに、疑いが解けたことで沛公をとどめ、ともに酒を酌み交わした。項王と項伯は東に向いて座り、亜父(あふ)は南に向いて座った。亜父とは范増(はんぞう)のことである。沛公は北向きに座り、張良は西に向き(沛公のそばに)控えて座った。范増は何度も項王に目配せし、身に付けている玉訣を持ち挙げて何度も項王に合図し、この場で廃校を殺害する決断を促した(「玉訣」と「決断」の「訣」が「決」つうじることから)。しかし、項王は黙ったままで応じない。范増は座を立ち外に出て、項荘を呼びよせて、こう言った。
そこで張良は軍門に行き、樊會(はんかい=沛公の護衛役)に会った。樊會は、
鴻門(こうもん)の会あらすじ
秦(しん 紀元前221年 - 紀元前206年)の始皇帝(しこうてい)が死去する(紀元前 210年)と、各地に反秦の旗を掲(かが)げる者が続出しました。その中で最も有力だったのが、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう=沛公)でした。今から2200年余前のことです。
項羽(こうう)はもとの楚の名門に生まれた武将。劉邦(りゅうほう)は沛(はい)から兵を起こしたので、沛公(はいこう)と呼ばれ、後に漢王朝を創始し初代皇帝となります。
紀元前207年10月、南から秦の都咸陽(かんよう)に迫る沛公(はいこう=劉邦)は、東から進撃してくる項羽(こうう)より約1か月早く都を占領、秦王を捕虜にし、項羽(こうう)の到着を待っていました。2人の間には、秦帝国の心臓部である関中(かんちゅう)に先に入ったほうがこの地の王となるとの約がありました。しかし、一足早く咸陽に入城した沛公(はいこう)は、函谷関を閉じて項羽(こうう)の軍の入城を阻(はば)もうとしたのです。
ところが、項羽(こうう)は討秦軍全体の最高指揮官であり、沛公(はいこう)はその一部将、そして率いる軍勢は40万対10万と沛公(はいこう)が圧倒的に劣勢でした。激怒した項羽(こうう)は、全軍に沛公(はいこう)攻撃を命じましたが、攻撃の直前、沛公(はいこう)の謀臣の張良(ちょうりょう)と項羽(こうう)の叔父(おじ)項伯(こうはく)のとりなしによって、両者は鴻門で会見することとなりまた。これを鴻門の会と呼びます。
この会談で項羽(こうう)の軍師范増(はんぞう)はしばしば項羽(こうう)に沛公(はいこう)をこの場で殺害することを促(うな)しますが、項羽(こうう)は反応を示しません。業(ごう)を煮やした范増(はんぞう)は、剣舞にかこつけて沛公(はいこう)を殺すように項荘(こうそう)に言い含めますが、項伯がこれを妨害しようとします。沛公(はいこう)の参謀張良(ちょうりょう)は危険を感じ、そのことを樊噲(はんかい)に伝えます。樊噲(はんかい)はその場に飛び込んできて、剛勇無双、忠義一徹の気力と弁舌によって項羽(こうう)を圧倒します。九死に一生を得た沛公はその場を抜け出し、後のことを張良に託して逃れることができました。
『史記』の項羽本記(こううほんぎ)に書かれ、わが国でも小説化されたりしていて人気のある場面です。
『史記』とは
前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。今から2100年ほど前の紀元前90ころ成立。
宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。
帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。
『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、文学作品としても人気を保ってきた史書でもあります。
また、中華の世界観・人間観・思考の組み立て方・行動原理などの原型をうかがい知るものとして読んでも興味深い書です。
今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。
鴻門之会(史記)1/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
鴻門之会(史記)2/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
鴻門之会(史記)3/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
劉邦と項王の人物像
沛公(劉邦)は鴻門での会談に臨むとき、どんな気持ちで出かけたのでしょうか。昨夜、項伯を丸めこめたと信じて身の危険を感じず、無事に帰ってこられると思っていたのでしょうか。項伯の親友の張良をはじめ、樊噲(はんかい)・夏侯 嬰(かこうえい)・紀信(きしん)などの股肱の臣(ここうのしん。いつも身近にいて信頼できる腹心の部下。)を連れて行ったことから見ると、身の危険を感じていたと思われます。
結果は無事に帰還することができましたが、その経緯は、危機一髪・絶体絶命と波乱に富んだものでした。この危機から沛公(劉邦)を救ったのは、項伯であり、張良、樊噲(はんかい)でした。智勇の臣下の活躍によって、沛公(劉邦)は九死に一生を得たことになります。
ここでも、有能な人物を部下として登用し、その部下を信頼し、その部下たちの声に耳を傾け、最善の方法に従う劉邦(沛公)の人間としての一面が読み取れる場面と言えます。
項羽(項王)は、優柔不断で、熱しやすく冷めやすく、極端から極端に走る激情型・直情径行型の人間として描かれているようです。例えば、沛公(劉邦)が陳謝したことに気を良くして沛公(劉邦)を撃つことをやめて「与(とも)に飲」んだり、「抉(けつ)」(抉は本来は王ヘン)を示して、ここで沛公(劉邦)を殺害せよという、范増(はんぞう)の再三の催促にも「黙然として応じ」なかったり、項荘の剣舞の申し出にも簡単に「諾(だく よろしい)」と言って許可したり、樊噲(はんぞう)の無礼な態度に「壮士なり」と言って咎(とが)めなかったりしたとされています。
息詰まるような場面と、そこでのそれぞれの人物の言動や心理に、思わず引き込まれてしまいます。
鴻門之会(史記)1/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
鴻門之会(史記)2/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
鴻門之会(史記)3/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ
荊軻~始皇帝暗殺(史記)はこちらへ
韓信~劉邦を勝利に導いた、稀代の戦略家 (史記)はこちらへ
臥薪嘗胆~すさまじい怨恨の連鎖(十八史略)はこちらへ
刎頸の交わり~中華の謝罪法、肉袒負荊(十八史略)はこちらへ
木曾の最期(平家物語)~日本人がそうふるまうのは なぜ ?はこちらへ
能登殿の最期(平家物語)~剛勇無双の平教経 VS. 敏捷に身をかわす源義経はこちらへ
忠度(タダノリ)の都落ち(平家物語)~動乱期の師弟愛はこちらへ
藤原紀香がナビゲートする「楊貴妃=長恨歌(白氏文集)中華と日本、美女の描き方」はこちらへ。
コメント
コメントを投稿