鴻門の会(『史記』)~九死に一生を得る 2/2

鴻門の会
(『史記』)
~九死に一生を得る 2/2 




鴻門の会(『史記』)~九死に一生を得る 1/2こちらへ)より続く。

「鴻門の会」(『史記』)2/2を現代語で

項王(こうう)が、
「壮士だな。まだ飲めるか。」
と尋ねると、樊會(はんかい=沛公の護衛 ★「 會」は正しくは口偏)が答えた、
「私めは死ぬことでさえ避けませぬ。大杯の酒くらい、どうして断るに足るでしょう。いや、断るには足りません。そもそも、秦王には虎や狼のような残忍な心がありました。人を殺すこと、あまりに多くて数え上げることができないほどです。人に刑罰を加えること、し残しがないかと心配するほどでありました。そのため、天下の人は皆そむいたのです。懐王(反秦軍の象徴としてかつぎだされた楚の王)は諸将と約束して『先に秦を破って咸陽(かんよう=秦の都)に入った者を王としよう』と言われた。今、沛公(はいこう=劉邦=漢王)は真っ先に秦を破り咸陽に入りましたが、わずかのものも自分のものにしようとはしませんでした。秦の宮室を封印し、軍を覇上(はじょう)に返して、大王様(項王)のお出ましを待っていたです。わざわざ将兵を派遣して函谷関を守らせたは、盗賊の出入りと非常事態に備えてのことなのです。沛公が苦労し功績が大きいことはこのようですのに、まだ侯に封じるとの恩賞がありません。それどころか、大王様はつまらぬ者の言うことを信じて、功ある人を殺そうとされる。これは滅びた秦と同じ事です。恐れながら、私は、大王様のなさり方には賛成しかねます。」
と。項王は返答できなかった。ただ、
「座れ。」
と言った。樊會張良(ちょうりょう=劉邦の最側近)の隣に座った。座って少しすると、沛公は立ち上がり廁(かわや)へ行った。そうして樊會を呼んで外へ出た。


 沛公は会場の場を出てしまった。沛公が帰ってこないので項王は都尉陳平(ちんぺい)に沛公を呼びに行かせた。沛公樊會に言った、
「今、退出するとき、別れの挨拶をしなかった。どうしたらいいだろうか。」
と。樊會が言った。
「大事を行うときは、ささいな慎みなど問題にしませんし、重大な礼を行う時には、小さな譲り合いなどは問題にしません。ちょうどいま、項王たちは刀と俎(まないた)であり、我が方は魚肉のようなものです。このような時にどうして別れの挨拶など必要でしょうか。いや、そのような必要などまったくありません。」
と。そこで、そのまま立ち去ったのである。


 そこで張良に留まらせてお詫びさせることにした。張良沛公に尋ねて言った。
大王(=沛公)はこちらにおいでになるとき、何をおみやげに持参されましたか。」
と。沛公が答えて言うには、
「私は一対の璧(白色の美しい珠)項王に差し上げようとし、一対の玉斗(ぎょくと=翡翠でできた酒ひしゃく)を亜父(=范増)にあげようとしたのだが、あちらが怒っているので、どうしても差し出すことができなかった。貴公、私にかわって献上してくれ。」
と。張良は言った、
「謹しんで承知致しました。」
と。


 この時、項王の軍は鴻門の近くにあり、沛公の軍は覇上(はじょう)にあった。その間の距離は四十里(約十六キロ)離れていた。沛公はそこで乗ってきた車と従えてきた騎兵をそこに残して身一つで抜け出して、自分だけは馬に乗り、樊會夏侯嬰(かこうえい)、斯(★)彊紀信ら四人は、剣と盾とを持ち徒歩で従い、麗(正しくは馬偏の漢字)山のふもとから、止(正しくはクサ冠の漢字)陽(覇上のこと)に通じる道を通って、こっそりと近道を通って帰った。(別れ際に)沛公張良に言った、
「この道から我が軍までは、たった二十里に満たないほどだ。わしが軍に到着するところを見計らって、貴公は中(宴席)に入れ。」
と。


 沛公はすでに去り、こっそり近道をして自軍の陣地に到着した。張良は宴席に入って謝って言うには、
沛公は酔ってこれ以上は飲むことができず、ごあいさつもできません。謹んで私め良に命じて、一対の白璧を捧げ、再拝して大王(項王)の足下に献上させ、一対の玉斗(翡翠でできた酒ひしゃく)を再拝して大将軍范増)の足下に献上させました。」
と。項王が、
沛公はどこにおるのか。」
と尋ねた。張良は、
大王(=項王)におかれてましては、沛公の過失をとがめる意志がおありと聞き及び、抜け出して一人で帰りました。すでに自軍に到着したでしょう。」
と言った。項王は璧を受け取り、座席の傍らに置いた。亜父(あふ=范増)は玉斗を受け取ると地面に置いて、剣を抜いて突き壊して言うには、
「ああ、小僧め、いっしょに策をめぐらすには不足じゃわい。項王の天下を奪う者は、必ずや沛公であろう。わしらの身内は、今に沛公の捕虜にされるだろう。」
と。沛公は自軍に到着すると、すぐさま裏切り者の曹無傷を処刑した。

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  鴻門(こうもん)の会あらすじ

 秦(しん 紀元前221年 - 紀元前206年)の始皇帝(しこうてい)が死去する(紀元前 210年)と、各地に反秦の旗を掲(かが)げる者が続出しました。その中で最も有力だったのが、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう=沛公)でした。今から2200年余前のことです。

 項羽(こうう)はもとの楚の名門に生まれた武将。劉邦(りゅうほう)は沛(はい)から兵を起こしたので、沛公(はいこう)と呼ばれ、後に漢王朝を創始し初代皇帝となります。

 紀元前207年10月、南から秦の都咸陽(かんよう)に迫る沛公(はいこう=劉邦)は、東から進撃してくる項羽(こうう)より約1か月早く都を占領、秦王を捕虜にし、項羽(こうう)の到着を待っていました。2人の間には、秦帝国の心臓部である関中(かんちゅう)に先に入ったほうがこの地の王となるとの約がありました。しかし、一足早く咸陽に入城した沛公(はいこう)は、函谷関を閉じて項羽(こうう)の軍の入城を阻(はば)もうとしたのです。

 ところが、項羽(こうう)は討秦軍全体の最高指揮官であり、沛公(はいこう)はその一部将、そして率いる軍勢は40万対10万と沛公(はいこう)が圧倒的に劣勢でした。激怒した項羽(こうう)は、全軍に沛公(はいこう)攻撃を命じましたが、攻撃の直前、沛公(はいこう)の謀臣の張良(ちょうりょう)と項羽(こうう)の叔父(おじ)項伯(こうはく)のとりなしによって、両者は鴻門で会見することとなりまた。これを鴻門の会と呼びます。

 この会談で項羽(こうう)の軍師范増(はんぞう)はしばしば項羽(こうう)に沛公(はいこう)をこの場で殺害することを促(うな)しますが、項羽(こうう)は反応を示しません。業(ごう)を煮やした范増(はんぞう)は、剣舞にかこつけて沛公(はいこう)を殺すように項荘(こうそう)に言い含めますが、項伯がこれを妨害しようとします。沛公(はいこう)の参謀張良(ちょうりょう)は危険を感じ、そのことを樊噲(はんかい)に伝えます。樊噲(はんかい)はその場に飛び込んできて、剛勇無双、忠義一徹の気力と弁舌によって項羽(こうう)を圧倒します。九死に一生を得た沛公はその場を抜け出し、後のことを張良に託して逃れることができました。

 『史記』の項羽本記(こううほんぎ)に書かれ、わが国でも小説化されたりしていて人気のある場面です。

項羽と劉邦 King's War 第44話 鴻門の会
made in China.

鴻門之会(史記)1/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら

鴻門之会(史記)2/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら

鴻門之会(史記)3/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら


  劉邦と項王の人物像

  沛公劉邦)は鴻門での会談に臨むとき、どんな気持ちで出かけたのでしょうか。昨夜、項伯を丸めこめたと信じて身の危険を感じず、無事に帰ってこられると思っていたのでしょうか。項伯の親友の張良をはじめ、樊噲(はんかい)・夏侯 嬰(かこうえい)・紀信(きしん)などの股肱の臣(ここうのしん。いつも身近にいて信頼できる腹心の部下。)を連れて行ったことから見ると、身の危険を感じていたと思われます。

 結果は無事に帰還することができましたが、その経緯は、危機一髪・絶体絶命と波乱に富んだものでした。この危機から沛公劉邦)を救ったのは、項伯であり、張良樊噲(はんかい)でした。智勇の臣下の活躍によって、沛公劉邦)は九死に一生を得たことになります。

 ここでも、有能な人物を部下として登用し、その部下を信頼し、その部下たちの声に耳を傾け、最善の方法に従う劉邦(沛公)の人間としての一面が読み取れる場面と言えます。


 項羽(項王)は、優柔不断で、熱しやすく冷めやすく、極端から極端に走る激情型・直情径行型の人間として描かれているようです。例えば、沛公劉邦)が陳謝したことに気を良くして沛公劉邦)を撃つことをやめて「与(とも)に飲」んだり、「抉(けつ)」(抉は本来は王ヘン)を示して、ここで沛公劉邦)を殺害せよという、范増(はんぞう)の再三の催促にも「黙然として応じ」なかったり、項荘の剣舞の申し出にも簡単に「諾(だく よろしい)」と言って許可したり、樊噲(はんぞう)の無礼な態度に「壮士なり」と言って咎(とが)めなかったりしたとされています。

 息詰まるような場面と、そこでのそれぞれの人物の言動や心理に、思わず引き込まれてしまいます。

鴻門之会(史記)1/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら

鴻門之会(史記)2/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら

鴻門之会(史記)3/3 原文/書き下し文/現代語訳はこちら


  『史記』とは

 前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。今から2100年ほど前の紀元前90ころ成立。

 宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。

 帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。

 『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、文学作品としても人気を保ってきた史書でもあります。

 また、中華の世界観・人間観・思考の組み立て方・行動原理などの原型をうかがい知るものとして読んでも興味深い書です。

 今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。


【参考】

司馬遷とは

 『史記』を著述、もしくは編者したとされる歴史家。
 中国前漢時代の人物。後世に残した影響は大きく、彼の残した史記は、歴史的だけでなく文学的にも重要視されている。
 20代のころには中国各地を旅行している。その後漢王朝に仕え、同じく仕官していた父の跡を継ぎこの書物の編纂を始めるものの、単独行動の末捕虜となった将軍李陵(りりょう)に対し弁護したため牢獄に繋がれ宮刑に処せられる。その後大赦(たいしゃ)により牢獄から出て6年、本書は完成する。
 また、歴史の考察や人物の評価においてはかなり合理的かつ辛辣(しんらつ)であり、三皇五帝の伝説に対して、現実的にはあり得ないだろうと前置きしつつも、伝説の分布している地域に共通点があると言う理由で「歴史」としてまとめたり、天の意思や超常的な存在による運命の変化などは否定し、本人の運命はあくまでもこれまでの積み重ねの帰結であると言う立場を貫いている。(『ピクシブ百科事典』より)


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