能登殿〈ノトドノ〉の最期(平家物語)~剛勇無双の平教経 VS. 敏捷に身をかわす源義経

 能登殿の最期(のとどののさいご)/平家物語~剛勇無双の平教経(たいらののりつね)VS. 敏捷に身をかわす源義経(みなもとのよしつね)




【平安時代】91 平家物語 壇ノ浦の戦い【日本史】2020/05/15

 〇動画目次
  0:00~ 概要  0:22~ 田口一族  1:20~ 伊勢義盛の謀  2:33~ 状況整理  3:20~ 関門海峡と潮の流れ  3:38~ 開戦前の源氏  4:18~ 開戦前の平家  4:49~ 壇ノ浦の戦い  6:07~ 平家の秘策  6:27~ 田口成良の裏切り  7:12~ 先帝入水  8:38~ 平宗盛  9:21~ 平教経と義経の八艘跳び  9:46~ 平家最期  9:58~ 赤間神宮



『平家物語』とは?

・ 鎌倉時代中頃までに成立した軍記物語。作者は未詳。

・ 平家の覇権が確立したころから、壇ノ浦における平家の滅亡を経て、建礼門院の往生に至る平家一門の興亡に焦点を合わせて描かれています。合戦譚や恋愛譚、説話や主要人物のエピソードが織り込まれ、これにこの時代特有の因果応報の仏教思想や儒教思想がからみあって、一大人間絵巻をくりひろげます。 

・ 盲目の僧形(そうぎょう)をした琵琶法師と呼ばれた芸人によって語られた語物(かたりもの)。琵琶によって『平家物語』を語ることを平曲といいます。

・ 合戦の場面は簡潔で力強い調子の和漢混交文で、情緒的な場面では流麗な七五調の文体でというように、場面に応じて巧みにかき分けられています。対句表現擬態語・擬声語の多用など、平安時代とは異なる語法が随所にみられます。



 動画どころか画像などもちろんなく、文字を読み書きできる庶民はほぼいない、そして、高価な紙に書写された書物を読めるのはごくごく例外的な人であった時代、琵琶法師が琵琶を奏でながら語ることば(平曲)を聴きながら、ことば一つ一つに集中し、想像力をはたらかせ、風景や人物や出来事をありありと思い浮かべ、自分もその場面に生きているかのように聴き入っていた、名もなき人々。そんな人々にできるだけ近づいて、その人々自身を体験するように読むと、「平家物語」をより深く味わうことができるのではないでしょうか。

☆ もっと詳しくはこちらの「木曾の最期」で(琵琶の演奏も聴けます)。



能登殿(平教経)の最後のいくさ語り
 平教経(たいらののりつね 能登殿)は、壇ノ浦の合戦で、この日を最後と、大太刀(おおだち)・長刀(なぎなた)を振り回し大活躍します。従弟(いとこ)の平知盛(たいらのとももり 新中納言)は使者をやって、「むだな殺生(せっしょう)はおやめなさい。りっぱな敵といえないものを」と言いやったところ、能登殿教経大将軍源義経に組めということと受け取って、義経目指して船から船へ乗り移って攻め戦うのでした。義経は表面では能登殿教経に立ち向かうと見せかけて、実際は避けて組もうとしない。そうしているうちに、どうしたはずみか義経教経は行き当たり、あわやと思われた瞬間、義経は離れた味方の船にひらりと飛び移る。今はこれまでと悟った能登殿教経は物の具(よろいやかぶとなど)を投げ捨て、「我と思わん者は生け捕りにせよ」と呼ばわるが、寄る者は一人もいませんでした。
 やがて、安芸太郎実光(あきのたろうさねみつ)という剛の者が、弟と郎等(ろうどう 武家の家臣)の三人がかりで討ちかかってきたが、能登殿教経は最初に郎等を海に蹴り入れ、弟と実光を両脇にさしはさんで、「お前たちも、死出の旅路の供をせよ」と言って、もろともに海に飛び込んで果てたのでした。

★能登殿の最期(平家物語)の原文/現代語訳はこちら




平教経と平知盛と源義経
平教経(能登殿)…ここでの主人公。勇猛果敢、剛勇無双の豪快な武者として描かれています。その最期もそれにふさわしく、死を少しも恐れず源氏方の武者を道連れに、なんのこだわりもためらいもなく入水(ジュスイ/水中に身を投げて自死すること)して果てたとしています。

平知盛(新中納言)…奮戦する能登殿教経に、「敵とはいえそれほど重要な敵なのか、そうではあるまい」と、無用に人を殺す罪作りを戒める。平家一門が滅亡に向かっていることを運命としてらえ、それは避けようのないという諦観からの言葉のようにみえます。

源義経(大将軍…兄頼朝が平氏を滅ぼすのに多大な功績をあげたが、後に対立することとなり、奥州衣川(おうしゅうころもがわ)の館で自害することとなる、悲劇の人。ここで、鎧(よろい)・甲(かぶと)をつけ、六、七メートルも海の上を飛ぶという、常人では考えられない早業(はやわざ)。敏捷(びんしょう)な行動、特別な技量の持ち主として描かれています。能登殿教経と一騎打ちになったら面倒なことになると、先を読んだ行動。戦(いくさ)の達人として、また、知将としてのふるまい。味方の士気を考えた司令官としての戦い方をしています。

 三者の人物が際立つように造形され語られています。








項羽と劉邦
 ついでに、情況は異なりますが、東アジア大陸で覇を争った項羽劉邦の下のようなやり取りが『史記』(司馬遷)で語られいます。


當此時,彭越數反梁地,絕楚糧食,項王患之。為高俎,置太公其上,告漢王曰:「今不急下,吾烹太公。」漢王曰:「吾與項羽俱北面受命懷王,曰『約為兄弟』,吾翁即若翁,必欲烹而翁,則幸分我一桮羹。」項王怒,欲殺之。項伯曰:「天下事未可知,且為天下者不顧家,雖殺之無益,只益禍耳。」項王從之。(項羽本紀)


 高校生上級編の漢文です。漢字の力がある人は訓読できるでしょう。


【現代語訳】
当時、彭越(ほうえつ)はいくたびか梁の地で反乱を起こしており、楚
(項羽の支配地)の糧道を絶っていた。項王(項羽)はこれを患い、高俎(高いまな板=生贄の台)を準備して太公(劉邦父)をその上に置き、漢王(劉邦)に告げて言った。「今、ただちに降伏しなければ、オレは太公(劉邦の父)を煮殺すぞ!」と。漢王(劉邦)は言った。「ワシは項羽(オマエ)とともに北面して懐王の命を受け『兄弟の約束を結ぼう』と宣誓した。だから、ワシのオヤジは、すなわちオマエオヤジである!どうしてもワシのオヤジを煮殺そうというならば、オレにもその羹(あつもの。ホットスープ)を一杯分けてもらおうか!」と。項王(項羽)は怒り、太公を殺そうとしたが項伯(項羽の側近)が言った。「天下の事(趨勢)はいまだわかりかねる。かつ、天下を取ろうと考えている者は家族の事なんか顧みるものではない、殺したところで無益なばかりか、ただ禍(わざわい)が増すだけだぞ!」と。項王はこの言葉に従った。



 不利な情勢を打開しようとして、項王(項羽)は捕えていた漢王(劉邦)の父親を足高いまないた(中華では木の切り株を用いる)にのせて、「降伏しないと、お前の父親を釜で茹でて殺してしまうぞ。」と脅迫した。項羽の残忍な性格が現れたものです。すると劉邦は「やるならやってみろ。そして、かまゆでにした後の一杯のスープを、ワシにも分けてくれ。」と返答したといいます。肉親の危機に直面しても落ち着き払っている劉邦の冷たい性格が語られていることになります。ここでは、人肉食が前提になっています。漢王朝の創始者劉邦(高祖)について書かれている一節で、漢王朝の正式な歴史書に記録されているのです !  彼我(ひが)の倫理観・美意識・論理の組み立て方は両極にあるほど異質だなあと思わされるのではないでしょうか。

 

これも、

我々を刺激する妄想をするならば…頭が割れ血を流すだろう。」こわすぎデス



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壇ノ浦に消ゆ 2012/09/06
maichin3916
源平最期の決戦となった壇ノ浦合戦 平家武者の意地と誇りを胸に、奮戦する平知盛 迎え撃つは戦の天才、源九郎義経 知勇兼備の武将、平知盛の潔い最期の姿 彼を惜しむ弁慶の叫びが、戦いの水面にこだまする・・

武蔵坊弁慶・中村吉右衛門 
源九郎義経・川野太郎 
伊勢三郎義盛・ジョニー大倉
常陸坊海尊・岩下浩 
平知盛・隆大助 
平資盛・堤大二郎








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