忠度(ただのり)の都落ち
『平家物語』
☆ 動乱期の師弟愛 ☆
平家物語「忠度の都落ち」
朗読|原文・現代語訳|2020/12/10
忠度(ただのり)の都落ち(平家物語)あらすじ
薩摩守(さつまのかみ)平忠度(たいらのただのり)は、都落ちの途中で引き返し、歌道の師である五条の三位藤原俊成(ふじわらのとしなり)卿の邸を訪ねたのでした。しかし、門は閉じられていて開かれません。薩摩守は大声で名乗り、俊成卿に「忠度です。」と告げます。すると、門内は騒然となり、「平家の落人がもどって来た!」との声が広がります。薩摩守は、「俊成卿に申し上げたいことがあります。門をおあけにならなくても、門のそばでお聞きください。」と伝えます。俊成卿は、門を開けて対面します。この対面は感慨深いものでした。
薩摩守は、長い間和歌の教えを受けてきたが、最近は京都の騒動や国々の乱れにより和歌の道をおろそかにしていました。主上(帝)が都を出られ、一門の運命も尽きてしまいましたった。しかし、勅撰集が編まれることを期待しており、自身が詠んだ歌を入集させていただきたいと願っていました。薩摩守は、巻物に百余首の秀歌を集めていましたが、世の乱れにより撰集の命令がないことを嘆いていました。
その後、世が平和になり、俊成卿が『千載集』を編纂(へんさん)する際、忠度の生前のようすや言葉を思い出し、巻物の中からふさわしい歌を選びました。帝のおとがめを受けた忠度の歌は、その名前を出すこともできず、一首だけの歌を「故郷の花」として入集させました。
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
〈志賀の古い都は荒れ果てていましたが、長等山(ながらやま)の山桜だけは昔ながらにあでやかに咲いている こと。〉
と詠まれています。
「忠度の都落ち」原文/現代語訳はこちらへ。
忠度と俊成
忠度
平忠度(たいらのただのり)。伊勢平氏の棟梁である平忠盛(たいらのただもり)の六男として生まれました。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われていて、1180年、正四位下・薩摩守。歌人としても優れていて藤原俊成(ふじわらのとしなり)に師事しました。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成(としなり)に託しました。勅撰集『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』に撰者・俊成は朝敵(ちょうてき)となった忠度(ただのり)の名を憚(はばか)り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載(けいさい)したのでした。
俊成 藤原俊成(ふじわらのとしなり)平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。(俊成は「しゅんぜい」とも読みます。)藤原北家御子左流(みこひだりけ。こちらを)、権中納言・藤原俊忠(としただ)の子。勅撰集『千載和歌集せんざいわかしゅう)』の撰者として知られています。
紀貫之、子息の藤原定家とならんで和歌史上の巨匠です。
動乱期の師弟愛
平家一門は、木曾の義仲(よしなか)の軍勢が都に入る勢いを示したため、ついに都落ちをすることとなりました。その際、六波羅の邸をはじめ京の所々に火を放ち、大混乱に陥ったといいます。そのような時に、落ち武者平忠度(たいらのただのり)が引き返してきたのだから、俊成の門内の人々は大いに動揺したのはもっともでしょう。
忠度(ただのり)が師俊成邸に来たのは、自詠歌の勅撰(ちょくせん)和歌集入集を願うためであったのです。今まで生きてきた時に燃やした歌道への執念をあらわすものです。もちろん、これから武士として死を賭(と)した戦(いくさ)に向かっていく決意と覚悟の上です。そして別れゆく俊成への惜別(せきべつ)の情をこめた詩を吟じながら西海に向かっていきます。文武両道に優れた武人、忠度(ただのり)の面目が生き生きと描かれています。
一方、俊成は動揺する邸内の人々を制し忠度(ただのり)を門内に入れます。和歌の弟子忠度(ただのり)への信頼と理解からです。そして、忠度(ただのり)が歌巻(かかん)を届けに来たことを「感涙(かんるい)おさへがたう候(さうら)へ」と深く感動する。さらに、死を覚悟して詩(※)を吟じつつ西海に向かっていく忠度(ただのり)に「いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさえてぞ入り給ふ」と忠度(ただのり)への哀惜(あいせき)の念の深さが描かれています。
後に、世が静まって『千載和歌集』を撰集された折、俊成は忠度(ただのり)が勅勘(ちょっかん。天皇のおとがめ)を受けた人なので、詠者の名は「読み人知らず」とし、「故郷の花」という題で詠んだ下記の一歌を入集させました。俊成は、天才的歌人であるだけではなく、慈悲に富み情愛深い人であったということになります。
さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(訳と解説はこちらを)
動乱の時代のこの師弟の両者それぞれのあり方が読む者、平曲を聴く者の心を打ちます。
※ 忠度(ただのり)が俊成邸を立ち去りながら口ずさんだ『和漢朗詠集』の一節。
前途程遠。馳思於鴈山之暮雲。 後會期遥。霑纓於鴻臚之曉涙。
↓ 訓読
前途程遠し。思ひを雁山の暮の雲に馳す。 後会、期、遥かなり、纓(えい)を鴻臚の暁の涙にうるおす 。
↓ 現代語訳
前途は遠く、私はこれから越える雁山の夕暮れの雲に思いをはせています。 あなたと再び会う機会は遥かに遠く、(悲しみで)冠の紐が涙にぬれています。
「忠度の都落ち」原文/現代語訳はこちらへ。
『平家物語』とは
・ 鎌倉時代中頃(今から約800年前)までに成立した軍記物語。作者は未詳(みしょう)。
・ 平家の覇権が確立したころから、壇ノ浦における平家の滅亡を経て、建礼門院の往生に至る平家一門の興亡に焦点を合わせて描かれています。合戦譚(がっせんたん)や恋愛譚、説話や主要人物のエピソードが織り込まれ、これにこの時代特有の因果応報の仏教思想や儒教思想がからみあって、一大人間絵巻をくりひろげています。
・盲目の僧形(そうぎょう)をした琵琶法師と呼ばれた芸人によって語られた語物(かたりもの)。
・合戦の場面は簡潔で力強い調子の和漢混交文で、情緒的な場面では流麗な七五調の文体でというように、場面に応じて巧みにかき分けられています。対句表現や擬態語・擬声語の多用など、平安時代とは異なる語法や文体が随所にみられます。平曲とは
琵琶を伴奏にして、「平家物語』を独特の節(ふし)回しで語ったものを平曲(へいきょく)といいます。
琵琶演奏「祇園精舎」〜伝統音楽デジタルライブラリー 2009年6月1日
現代の饒舌(じょうぜつ)すぎることば、鮮明で高速度で切り替わる映像に、中身が伴っているのかと疑問に思うことがあります。
動画どころか画像などもちろんなく、しかも、文字の読み書きができたり、高価な紙に書写された書物を読めるのはごくごく例外的な人であった時代、琵琶法師が琵琶を奏(かな)でながら語ることばを聴きながら、ことば一つ一つに集中し、想像力をはたらかせ、風景や人物や出来事をありありと思い浮かべ、自分もその場面に生きているかのように聴き入っていた、名もなき人々。そんな人々にできるだけ近づいて、その人々自身を体験するように読むと、「平家物語」をより深く味わうことができるのではないでしょうか。
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