韓信
『史記』
~国史無双、劉邦の覇権を
決定づけた戦略家
【中編】
韓信(かんしん)は、Chinaの秦末から前漢初期にかけて活躍した武将です(今から2200年ほど前となります)。漢王朝をひらいた劉邦(りゅうほう=漢王=沛公。漢王朝初代皇帝となる)の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を確立する上で重要な役割を果たしました。特に「背水の陣」(⇒こちら)などの戦術で知られ、張良・蕭何(しょうか)と共に漢の三傑の一人とされています。
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「韓信」(『史記』淮陰侯列伝)【中編】を現代語で
紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦(りゅうほう)の元へと移る。しかし、ここでも連敖(れんごう=接待係)というつまらぬ役しかもらえませんでした。ある時、罪を犯し、同僚13名と共に斬首刑(ざんしゅけい)に処されそうになりました。たまたま劉邦の重臣の夏侯嬰(かこうえい)がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士(=私=韓信)を殺すような真似をするのだ」と訴えたところ、そんな韓信を面白く思った夏侯嬰は、劉邦に韓信を許し取り立てるように推薦しました。
劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(ちぞくとい=兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示しませんでした。自らの才能を認めて欲しい韓信は、漢軍の兵站の責任者である蕭何(しょうか)と何度も語り合い、蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に重職に取り立てるように何度も推薦しますが、劉邦はやはり受け付けませんでした。
次の本文は韓信と蕭何が語り合うところから始まります。
蕭何、韓信と語る
韓信はしばしば蕭何(しょうか、漢王劉邦の側近)と話し合った。蕭何は韓信を傑出した人物だと思った。
韓信の逃亡
南鄭(なんてい)まで来ると、将軍たちで逃げ出すものが数十人もいた。そのさまを見た韓信は、
「蕭何たちがこれまで、何度も自分を重く取り立てるように漢王(=劉邦)に言上してくれたのにもかかわらず、漢王(=劉邦)はこの自分をお取り立てにはならない。」
と考えた。そこで、すぐさま逃げ出してしまった。
蕭何の追跡
蕭何は韓信が逃亡したことを聞くと、漢王(=劉邦)に言上(げんじょう)するいとまもなく、自分で彼を追いかけた。このことを、だれかが漢王(=劉邦)に申し上げた。
「蕭宰相(しょうさいしょう)が逃亡なさいました。」
と。漢王(=劉邦)は大いに怒り、まるで左右の手を失ったかのようであった。
激怒する漢王、蕭何の弁明
そのまま一二日が経過し、蕭何が韓信を連れ戻って参内して謁見した。漢王(=劉邦)は腹が立つやらうれしいやらであった。そして蕭何を怒鳴りつけて言うには、
「お前が逃げたのはどういうわけじゃ。」
と。蕭何は
「わたしはなにも逃げは致しません。わたしは逃亡した者を追っかけたのでございます。」
と答えた。漢王(=劉邦)は
「お前が追っかけたというのはいったい誰じゃ。」
と言った。蕭何は
「韓信でございます。」
と申し上げた。すると、漢王(=劉邦)はまた大きな声で怒鳴りつけて言うには、
「将軍たちで逃亡した者は何十人というのに、これまでそちはその連中を追っかけたことはなかった。韓信を追っかけたなんぞ、まっかな嘘じゃろうが。」
と。
☆戦国時代、人間すべてエゴイズムの固まりであったでしょう。いや、むしろ、少しでも自分の利益のある方に付き従う人間心理は今も昔も変わるところがないというべきでしょう。そんななか蕭何は韓信にほれこんでしまったのです。韓信はそんな蕭何に対して人生意気に感じて、漢帝国の基礎作りに多大の貢献をすることとなります。
また、韓信を連れ戻った蕭何に対して、漢王(劉邦)は烈火のごとく怒って怒鳴りつけるのですが、しだいにその怒りはおさまっていきました。☆
国士無双の韓信
蕭何は申し上げた。
「ほかの将軍たちなら簡単に得られます。が、韓信のような人物となると、国中に二人といない逸材(=国士無双)でございます。大王(=劉邦)がどうしても末永くこの漢中で王でいたいとお思いになられるのならば、韓信を問題になさる必要はありません。しかしぜひとも天下を争おうとお思いになるのならば、韓信をおいてほかには天下の大事をはかる者はございません。ただ大王(=劉邦)のお考えがどちらに決定されるかと言うことだけのことでございます。」
と。
漢王の決意
漢王(=劉邦)は言った、
「わしとても東へ進出して、天下を制圧したいと考えているのじぁ。どうして鬱々としていつまでもこんな所(=漢中)にくすぶっておられるものか。」
と。蕭何は
「大王(=劉邦)のお考えが何としても東へ進出して、天下を制圧しようとして、韓信を十分お用いになるならば、韓信はすぐにも踏みとどまります。万一、十分お用いになることがおできにならないのならば、韓信は結局逃げ出すばかりでございます。」
と言った。
異例の待遇
漢王(=劉邦)が言うには、
「それならわしはそちの顔を立てて、韓信を将校に取り立てよう。」
と。蕭何は
「将校くらいでは、韓信はきっととどまらないと存じます。」
と言った。漢王(=劉邦)は
「それじぁ、韓信を大将(=総司令官)に任命しよう。」
と言った。蕭何は
「ありがたき幸せに存じます。」
と言った。
☆蕭何の韓信への肩の入れようは、徹底的でした。漢王の逆鱗に触れたときは、蕭何の命はないのです。命がけの諫言だったと言ってもよいでしょう。韓信を総大将に任命することを約束させた蕭何は、さらに任命の作法まで教示しました。蕭何の韓信への評価と、結局、それを受け入れ、思い切った人事を即座に決断した漢王の器量の大きさが語られていることになります。☆
☆蕭何の韓信への肩の入れようは、徹底的でした。漢王の逆鱗に触れたときは、蕭何の命はないのです。命がけの諫言だったと言ってもよいでしょう。韓信を総大将に任命することを約束させた蕭何は、さらに任命の作法まで教示しました。蕭何の韓信への評価と、結局、それを受け入れ、思い切った人事を即座に決断した漢王の器量の大きさが語られていることになります。☆
任命式挙行
吉日を選び、斎戒して身を清め、広場に高台をしつらえて、礼を尽くされますように。それでこそ始めて総大将を任命するにふさわしいといえるのでございます。」と言った。漢王(=劉邦)は蕭何の申し出を承諾した。
将軍たちはみな喜び、それぞれが、自分こそ大将の地位を得られるぞと考えた。(ところが)大将が任命されたのを見ると、なんと韓信だったのである。全軍皆驚いた。
☆蕭何の熱心な推薦に、漢王は心を動かし、韓信を大将(総指揮官)に任命することにした。これに対して蕭何は、任命するに当たっては安易な気持ちであってもらっては困る、斎戒して、良日(りょうじつ)を選び、壇場を設けて礼を尽くすべきであることを強調した。漢王はこれを認める。一方、将軍たちは自分が栄進するのであろうと胸をときめかせて式場に出席する。将軍たちはもともと野心家であり、能力ももちろん高い自信家である。修羅場の中で戦い抜き、戦果を挙げてきた自負も抱いていたはずです。しかし、大将に任命されたのは無名と言っていい韓信であったのです。☆
『史記』とは
前漢の司馬遷によって書かれた史伝。紀元前90ころ成立。
宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。
帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。
『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、文学作品としてもながく読まれてきています。
今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。
💚💚💚こちらも、おすすめデス💖💖💖
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