韓信
『史記』
~国史無双、劉邦の覇権を
決定づけた戦略家
【後編】
韓信(かんしん)は、Chinaの秦末から前漢初期にかけて活躍した武将です(今から2200年ほど前となります)。漢王朝をひらいた
劉邦(りゅうほう=
漢王=沛公。漢王朝初代皇帝となる)の元で数々の戦いに勝利し、
劉邦の覇権を確立する上で重要な役割を果たしました。「背水の陣」(⇒
こちら)などの戦術で知られ、
張良・
蕭何(しょうか)と共に漢の三傑の一人とされています。
韓信(『史記』)国史無双、劉邦の覇権を決定づけた戦略家【中編】は
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韓信(『史記』)国史無双、劉邦の覇権を決定づけた戦略家【前編】は
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「韓信」(『史記』淮陰侯列伝)【後編】を現代語で
韓信(劉邦)は任命式を終えて大将の座に着席した。漢王(劉邦)は韓信に向かって、
「宰相の蕭何(しょうか)はそちの優秀さをたびたび話してくれた。それほどのそちはこのわしにいったいどんな策を授けてくれるのじゃ。」
と。韓信は漢王に大将に任じてくれた恩恵を感謝し、それから漢王に尋ねた。
「ただ今、東に向かって天下に権力を争う相手は、多分項王ではありませんか。」と。漢王は言った、
「さようじゃ。」
韓信は漢王に、
「大王がご自分で推量なさるに、勇猛さ、慈愛の深さの点で、項王とどちらがまさっておいででしょうか。」
と訊いた。漢王はしばらく黙りこくっていた。しばらくそのままだった。そして言った。
「わしは項王にとてもおよばん。」
と。韓信は再拝の礼を行い、王をたたえ(=正しい返事があったので、ほめる代わりに「賀」したのです)てから言った。
「この私も、お説の通り大王の方が及ばないと存じます。しかしながら、私は以前項王に仕えたことがございます。ですから、項王の人柄を申し上げさせていただきましょう。
**漢王(劉邦)に「勇猛さと慈悲深さにおいて、大王と項王と比べるとどちらが勝っているか。」と尋ね、漢王から「わしは項王にとてもおよばん。」という答えを引き出し、そこから、項王攻略の策を説き始めていく話法が巧みです。一方、秀でた者の論は虚心に聴こうとする漢王は度量の広い王だと言えます。**
項王が怒って大声でどなりつけますと、千人の者は皆思わずひれ伏してしまいます。しかしながら立派な将軍に仕事を任すことができません。これではただ単に思慮分別のない凡夫の勇にすぎません。項王は人に接するときには礼儀正しく丁寧で、温情にあつく、言葉遣いはまことにやさしいのです。人が病気にでもなれば涙を流して飲食物を分け与えるということはしても、自分の部下を使ってその部下に土地や爵位を授けるほどの手柄や功績を立てたものが出たとなりますと、授けるべき印が磨り減ってしまうくらい、手の中でもてあそび、未練がましくして渡すことができません。このようなしぐさは、いわゆる婦人の仁というものでございます。韓信の策④ 項王の統治の問題
項王は天下の覇者となり、諸侯を己の臣下としておりますが、秦の故地である関中に居を定めず、彭城(楚)に都を置いています。義帝(=懐王)との約束に背いた点があります。しかも親しくかわいがっているという理由で、諸侯を王として取り立てたのは公平ではございません。項王が義帝を追放して江南に移したのを見た諸侯も、皆帰国すると、己の主君を追放し、自分がよい土地の王に収まっております。項王が通ったあとのまちで、破壊し滅ぼさなかった所はありません。そういうわけでございますから、世の多くの人々が項王を恨み、国民はなつかないのでございます。ただ、その威勢に脅かされているにすぎません。名目だけは天下に覇を唱えてはおりますけれど、その実、国民の心を失っているのです。韓信の策⑤ 分析と戦略
ですから、『強いものは弱くしやすい』と申します。いま、大王がほんとうに項王のやり方の反対の方法をとることがおできになり、世の中の武勇に優れた者をご親任になるならば、項羽を殺せないはずがありません。天下の町々を手柄のあった臣下にお下しなられるのならば、誰だって服従いたします。正義を旗印として兵を進め、東に帰りたがっている兵士たちを従えれば、撃破できぬ相手はありません。しかも、三秦の将軍たちは、元はと言えば秦の将軍たちでございます。その将軍たちは秦の若者を率いて戦うこと数年でございました。そして、そのために死んでいった者は数えきれないほどでございます。また、その上、部下の兵士を欺いて諸侯に降伏し、新安にやってくると、項王はだまし討ちにして、秦の兵で降伏した者二十四万人を生き埋めにして殺し、ただ邯(かん)・欣(きん)・翳(えい)の三人だけがその難を免れることができたのでございます。それですから、秦の父兄はこの三人を恨み、悲痛の思いは骨の髄までしみこんでいます。今、楚の項王は強引に己の威を頼み、これらの三人を王として立てていますが、秦の国民は誰一人として彼らを信愛する者はございません。それに引き比べ、大王が武漢にご入城になるや、ごくわずかなものも損なわれることなく、秦のむごい法律を廃して、秦の民に約されたのは三か条の法律だけでした。秦の国民で大王が王になられることを希望しないものはおりません。諸侯間の約束で、大王が当然関中の王になられてしかるべきお方であり、関中の民はみなそのことを知っております。ところが意外にも項王の横車にあい、関中で王たるべき地位を失い、漢中に行っておしまいになった時は、秦の民はがっかりして、残念がらないものはありませんでした。ですから、今、大王が兵をまとめて大挙して東に進撃されたならば、三秦の地は、檄文をとばすだけで平定できるでありましょう。」と。
すると、項王は大いに喜び、自分の心中で、韓信をもっと早く自分のものにすればよかったと反省した。そしてそのまま韓信の計略を聞き入れ、諸侯たちの攻撃目標を定め、それぞれの任務を割り振りしたのだった。
「韓信2」のあらすじ/原文/書き下し文/現代語訳はこちらへ。
韓信の、巧みな語り口
韓信はまず、劉邦が覇権を勝ち取るのに最大の障壁となるのは項羽であることを焦点化します。そうして、項羽の美点と劉邦のそれとを比較させ、「項羽には及ばない」と自らの口によって語らせ、謙虚に韓信の話を聴いてみようという心理に誘導しています。その上で、打倒すべき敵の弱みを知り、それに基づいて戦略を立てる重要性を自然に理解させていきます。
韓信、項王攻略の戦略を説く
**項王の評価**
① 勇猛であり、怒ると千人がひれ伏すほどの威圧感があるが、将軍たちに仕事を任せきることができない、「匹夫之勇」(
こちらを)の持ち主だ。
②礼儀正しく温情に厚いが、功績を立てた者に土地や爵位を授けることをはなはだ惜しむ、「婦人之仁」(
こちらを)の持ち主である。
つまり、項羽の全能性・カリスマ性とそれと表裏する組織統治の欠陥を具体的に説明することで、劉邦にその隙を突く機会があることを示しているわけです。
**項羽の政治的な失策とその影響力**
項羽の、都の選択、義帝(懐王)との約束破り、諸侯への好き嫌いや思い込みによる不公平な措置、項羽の軍兵たちの残忍非道さなど具体的な事例を挙げ、それが広範囲にわたる不満と不信を招いていると論じます。
韓信はこの影響力の大きさを強調し、劉邦がうまく立ち回ればここに勝機があるとします。
**勝利への戦略**
一言でいえば、項羽の弱みを衝く方法をとれということになります。
①真に武勇に優れた者を親任しその者に各局面を任せよ。
②戦果功績をあげた者には天下の町々を支配地として与えよ。
③東方の秦に帰りたがっている兵士の心理を利用せよ。
④降伏した二十万人を生き埋めにして殺し、裏切り者の三人を秦の王にしているなどへの、項羽に対する民衆の憎しみを利用せよ。
すなわち、優れた将を登用して各局面は任せ、王は大局を正しく把握して最適かつ道義に適う方針を明示すべしということになります。
**支持と資格**
劉邦は、秦王朝を滅ぼし、都咸陽に入城した際、秦の厳しい法律を撤廃し、「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めた寛大さを示すことで住民からの広範な支持を得ていた。
また、諸侯間の約束から、
劉邦が漢中の王になる資格があることを民衆はみな知っている。
**火ぶたを切るのは今 !**
韓信は、以上の分析に基づいて、項羽に対して、今戦端を開けば全土の反項羽勢力も呼応して劉邦の旗のもとに決起し、瞬く間に勝利できると断言しました。
劉邦は、韓信の現状と対敵分析や見通しがしっかりとした根拠と事実に基づいていることを認め、項羽支配打倒の行動に移ることを即決しました。
このようにして劉邦(漢王)は天下の覇者となり漢王朝を開くこととなりました。
狡兎死して走狗烹らる
AC202年、劉邦(漢王)はついに天下を統一し漢王朝を打ちたて、初代皇帝となりました。
ところが、間もなく韓信には反逆の心があると密告する者があり、劉邦は側近の陳平に計画を立てさせ逮捕しました。この時韓信は「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる。高鳥(こうちょう)尽きて良弓(りょうきゅう)蔵(ぞう)され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか。」と口にしたといいます。
「狡兎」とは、すばしっこい兎(うさぎ)。「走狗」とは、猟犬のこと。兎を捕まえる猟犬も、兎が死んでいなくなれば用無しとなり煮て食われるという意味で、価値がある時は大事にされ、無くなれば簡単に捨てられる事をいいます。本来は「敵国が滅びると、軍事に尽くした功臣であっても不要になって殺される」現状を比喩する為に用いられました。犬食文化がバックグランドにある言い方。
劉邦は韓信をこの時は謀反(むほん)の疑いについては保留して、兵権を持たない淮陰侯(わいいんこう)へと降格させました。しかしのちに、韓信は本当に劉邦に謀反を企てて失敗し処刑されてしました。
ここに、戦時的人物と平和時の人物の類型が語られていることとなります。時代の要求する人物像の違いを作者の司馬遷は描いて見せているのです。
音声は1:50後から
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項羽と劉邦 King's War 第49話 韓信大将軍
『史記』とは
前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。紀元前90ころ成立。
宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。
帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。
『史記』の最大の特色は、歴史年表的歴史記述や単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、文学作品としてもながく読まれてきています。
今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。
韓信(『史記』)国史無双、劉邦の覇権を決定づけた戦略家【中編】は
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韓信(『史記』)国史無双、劉邦の覇権を決定づけた戦略家【前編】は
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【参考】
司馬遷とは
『史記』を著述、もしくは編者したとされる歴史家。
中国前漢時代の人物。後世に残した影響は大きく、彼の残した史記は、歴史的だけでなく文学的にも重要視されている。
20代のころには中国各地を旅行している。その後漢王朝に仕え、同じく仕官していた父の跡を継ぎこの書物の編纂を始めるものの、単独行動の末捕虜となった将軍李陵(りりょう)に対し弁護したため牢獄に繋がれ宮刑に処せられる。その後大赦(たいしゃ)により牢獄から出て6年、本書は完成する。
また、歴史の考察や人物の評価においてはかなり合理的かつ辛辣(しんらつ)であり、三皇五帝の伝説に対して、現実的にはあり得ないだろうと前置きしつつも、伝説の分布している地域に共通点があると言う理由で「歴史」としてまとめたり、天の意思や超常的な存在による運命の変化などは否定し、本人の運命はあくまでもこれまでの積み重ねの帰結であると言う立場を貫いている。(『ピクシブ百科事典』より)
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