九月二十日のころ
(徒然草)
~奥ゆかしさ、て何 ?
「九月二十日(ながつきはつか)のころ」(徒然草)を現代語で
九月二十日のころ、ある方にお誘いをうけて、夜の明けるまで月見をして歩いたことがあったが、途中でその方がふと思い出された女性のお住いがあって、取次をさせて、そこへお入りになった。
その家のようすを見ると、荒れた庭に露が一面おいているうえに、特に用意したらしくない香のにおいがしんみりとかおり、世の中を避けて目立たないよう住んでいるようすが、まことに情趣深い。
ほどよく時間を過ごして、その方は出ていらしたが、なおその情景が自分には優美に思われたので、物かげからしばらく見ていたところが、客を送り出したその家の女性は、その方の出ていらした室の出入り口の戸を、さらにも少し押し開けて、月を見ているようすである。もしこの場合、すぐに掛け金をかけてひっこんでしまったのだったら、どんなになさけないことであったろう。人を送ってしまったあとまで、見ている人があるとは、どうして知ろう。他を意識せずにこういう態度が自然に出るというのは、平生(へいぜい)の心がけによるのであろう。
この女性は、その後、間もなく亡くなったということである。
九月二十日のころ(徒然草) 原文+口語訳はこちらへ
奥ゆかしさ、て何 ?
秋の終わりのころ、しのび妻(こちらを)を訪問する高貴な人を描き、兼好は、この男女双方に心からの共感を感じて、筆をとったようです。
しのび妻(こちらを)との逢瀬も、シチュエーションに応じ「よき程」を心得、相手の女性の侘びた庭の造作や「わざとならぬ」薫物(たきもの。こちらを)のかおりや別れに名残を惜しむ姿に、兼好は感心する。奥ゆかしい人(優なる人)とは、すべてこのような日常朝夕の心遣いが身に付き、一挙一動となっている人。
「奥ゆかしい」という言葉の解説として『実用日本語表現辞典』では次のように解説されています。
奥ゆかしいとは、表面に現れない深い部分に美しさや趣がある様子を表す言葉である。この言葉は、一見すると分かりにくいが、じっくりと観察することで見えてくる内面の美しさや、控えめながらも存在感を放つ態度を指す。奥ゆかしいとは、派手さや目立つことを避け、内面の豊かさや繊細さを大切にする姿勢を示す。例えば、日本の伝統的な美意識や、和食の繊細な味わい、日本庭園の落ち着いた風情などは、奥ゆかしいと表現されることが多い。また、人の性格や行動に対しても使われ、控えめでありながらも深い思いやりや理解力を持つ人を指すこともある。同じ男と女の逢瀬でも、『源氏物語』の光源氏と夕顔の一夜とは趣が異なる。観月も、中秋の月ではなく晩秋の欠け始めた月、しのび妻とのひと時の逢瀬など、ここで語られているすべてが、典型や殊更な作為〈=中心〉から距離をおいて、作為的な無作為ともいえるもの〈=周縁〉に価値を見出そうとする、中世的な美意識にかなっているとも言えるでしょう。そして、これは、欧米流とは違って自己主張は控えめにするのを良しとするなどにみられる、現代の我々の意識や挙止動作(きょしどうさ)に深いところで影響を与えていると考えてもいいと思います。
簡潔な表現が強いイメージ喚起力を持っていて、「★佳人薄命(かじんはくめい)」譚(たん)にもなっており、武者小路実篤(こちらを)は、この段を「一遍の詩であり、美しい短編小説とも言える」と評しています。
★ 「佳人」とは、容姿の美しい女性のこと、または、品格や知性のある女性のこと。「薄命」とは、短命なこと、または、運命に恵まれないこと。
『徒然草』とは
仏教的無常観・老荘的虚無思想・儒教的倫理観が基盤にあるとされ、また、作者兼好法師は和歌四天王の一人に数えらたように、美的感受性にも優れている。
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