これも仁和寺の法師
『徒然草』五十三段
~ちょっとした余興が
😱とんでもない結末に !
『徒然草』とは
兼好法師によって鎌倉時代終わりころに書かれた。『枕草子』(清少納言)・『方丈記』(鴨長明)と併せて日本三大随筆と言われている。
『徒然草』は、「ある人、弓射ること習ふに」や「高名の木のぼり」を読むと人生上の教訓集と見えますが、「神無月のころ」や「花はさかりに」は兼好の趣味論にも見えます。さらに、この「五月五日、賀茂の競べ馬を」や「大事を思ひ立たん人は」は死生観や無常観を論じるものにも見えます。
加藤周一さんの『「心に移りゆくよしなしごと」を次々と書きとめることで、多面的でしばしば相反する思想を一冊の小著にまとめあげた』という見方が、私には最も納得されます。
これも仁和寺の法師(徒然草 五十三段)を現代語訳で
これも仁和寺の法師の話だが、修行をしていた小坊主が法師になろうとする最後の別れということで、みんなで遊ぶことがあったときに、とある法師が酔っぱらって調子づいた結果、そばにあった足鼎(あしがなえ=三本脚の金属製の容器、鍋や釜に用いた)をとって、頭にかぶったところ、つっかえるようになるのを、鼻を押して平たくして、顔を足鼎(あしがなえ)の中にさしこんで舞い踊ったところ、一座の者がみんな、この上なく面白がった。
しばらく踊ってから足鼎(あしがなえ)を抜こうとすると、まったく抜けない。酒宴も興覚(きょうざ)めになって、どうしようかと、途方(とほう)に暮れた。あれこれしていると、首の周りが切れて血がたれ、むやみにはれあがって息も詰まってきたので、足鼎(あしがなえ)を打ち割ろうとするけれども、なかなか割れないし、響いて我慢ができなかったので、割ることもできず、どうしようもなくて、三本足の角の上に、帷子(かたびら=ひとえの着物)をかけて、手を引き杖を突かせて、京都にいる医師のもとへつれていった、その道中、人が怪しんでみることこの上もない。医師の家に入って、対座したであろうありさまは、さぞかし異様であっただろう。医師が、ものを言うのも、こもり声に響いて聞こえない。「こんなことは医書にも見えないし、口伝えの教えもない。」と言うので、また仁和寺に帰って、親しい者や年老いた母などが、枕元に近づき座って、泣き悲しむけれども、本人はその声を聴いているとも思われない。
むごい結末
作者兼好は、仁和寺の法師について、おそらく複数の伝え聞いたであろう話を組み立て構成し記述しています。本人と身内や身近の人には絶望的悲劇そのものであり、第三者としても、そんな目に遭ったらと恐ろしくなるが、同時に思わず笑ってしまうことも抑えがたいということがあります。そういう話として巧みに書かれています。
前段の「仁和寺にある法師」では、仁和寺の法師が思い立って石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に参詣(さんけい)したが、ふもとの極楽寺などを拝んだだけで、これが石清水八幡宮だと思い込んで帰ってきたという話を述べて、何事にも指導者が必要だという教訓で結んでいる。だが、その話に続くこの「これも仁和寺の法師」では、かなり刺激の強い話となっているが、教訓らしいことは記されていません。しかし、後先(あとさき)を考えない軽はずみな行動が恐ろしい結果を招くと戒めているととらえてもいいようです。
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