五月五日、賀茂の競べ馬を
『徒然草』四十一段
~「木の枝で、どうして安心して眠っているのだろう ? 」
『徒然草』とは
兼好法師によって鎌倉時代終わりころに書かれた随筆。『枕草子』(清少納言)・『方丈記』(鴨長明)とあせて日本三大随筆と言われています。
自然、社会、人間のありように対する思いを述べた随筆で、さまざまな角度から斬新(ざんしん)な感覚で切り込んだ作品。王朝文化へのあこがれ、有職故実(ユウソクコジツ。礼式・官職・制度などの由来など)に関する心構え、処世訓、自然美の新しい見方など、素材・対象は多彩を極めています。
仏教的無常観・老荘的虚無思想・儒教的倫理観が基盤にあるとされ、また、作者兼好法師は和歌四天王の一人に数えらたように、美的感受性にも優れています。
仏教的無常観・老荘的虚無思想・儒教的倫理観が基盤にあるとされ、また、作者兼好法師は和歌四天王の一人に数えらたように、美的感受性にも優れています。
「珍しいばか者だよ。こんなに危ない枝の上で、どうして安心して眠っているのだろう。」
と言うので、ふと、私の心に思いついたとおりに、
「私たちの上に、死がやってくるのも、今すぐであるかもしれない。それを忘れて、見物して日を暮らすのは、愚かなことではあの法師よりいっそうまさっているのに。」
と言ったところ、前にいる人たちが、
「まことに、そうでございました。何とも愚かなことでございます。」
と言って、皆、後ろを振り返って、「ここへお入りなさい。」と言って、場所をあけて、呼び入れました。
競馬を見物する人々と木の枝で居眠りする僧、どちらが愚か ?
競馬見物の際の小さな出来事を見ても、すぐに人生の無常の姿に想いを寄せる兼好の思想は、いかにもいきいきとして、そして、身についたもののようです。しかも、そういう兼好の一言がその場の人々に共感を与えたというのは、鎌倉末の人々に無常観が広く行き渡っていたからでしょう。
死期が到来すること今すぐかもしれないのを忘れて、競馬見物などして日を過ごしている馬鹿さかげんを、たまたま木の枝の上に座ってうつらうつらしている僧と比較して指摘するのは、思いがけない着想ではないでしょうか。
人々が我がちによい場所で見物しているようすが、利欲を争って生きていることに重なって見え、人々の人生の地盤がいかにもろいものかに気づかされたようです。人々はそんな自分たちの愚かさを恥じ、その愚かさから少しでも脱したいと思って、場所を空けてくれたという心理観察もおもしろいと思います。
五月五日、賀茂の競べ馬を(『徒然草』四十一段)原文+口語訳はこちらへ
「五月五日、賀茂の競べ馬を」(『徒然草』四十一段))は、1:02:16~1:04:17。
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