『徒然草』とは
『枕草子』(清少納言)・『方丈記』(鴨長明)と併せて日本三大随筆と言われている。
自然、社会、人間のありように対する思いを忘れた随筆で、様々な角度から斬新(ざんしん)な感覚で切り捨てられた作品。王朝文化へのあこがれ、有職故実(ユウソクコジツ。礼式・官職・制度などの)由来など)に関する心得、処世訓、自然美の新しい見方など、素材・対象は多様を極めている。作者兼好法師は和歌四天王の一人に数えられたように、美的感受性にも優れている。
「折節の移り変はるこそ」要約
季節の移り変わっていくことこそ、何事につけてもしみじみとした趣きがあるものだ。
『ものごとの趣きの深さは秋こそ優れている』と人々は言うけれど、それもいちおうもっともなことだが、いま一層心を浮き立たせる季節は、春の景色であるようだ。(その春の有様は)鳥の声も格別に春らしくなって、のどかな日の光を受けて、垣根の草も芽を吹く(早春の頃)から、少し春は深まり、霞が辺り一面にかかり、桜の花も次第に咲き出そうとする、その大事なよい時なのに、ちょうど折りも折りあいにく、雨風がうち続いて、気ぜわしく散ってしまう、(その桜の木が)青葉になっていくまで、人々はいろいろなことに、ただもう気をもんでばかりいる。花橘は、昔から懐旧の情を誘うものとして有名ではあるが、梅の香りによって過去のことも当時に立ち返って懐かしく思い出されるものである。(また)山吹の花が清らかに咲いている様子や、藤の花が、ぼうっとしてはっきりしない様子で咲いているのなど、すべてが捨てがたいものばかりである。
(夏に入って)『灌仏会と賀茂神社の祭りの頃の若葉が木の梢に涼しげに茂っている様子は、世の物悲しさや人を恋しく思う気持ちも、募るものだ』とあるお方がおっしゃったことは本当にその通りである。五月になって、軒先に菖蒲をさす端午の節句の頃、苗代から苗を田に移す田植えの頃、水鶏が戸をたたくような声で鳴くなどは、心細い感じがしないだろうか(、実に心細いものである)。六月の頃、粗末な家に夕顔の花が白く(咲いているのが)見えて、蚊遣り火をくすべているのも情趣のあるものである。六月晦日の大祓もまた興趣がある。
(秋になって)七夕(の星を)祭るのこそ、本当に優雅なものである。だんだんと夜の寒さを感じる頃、雁が鳴いてくる頃、萩の下葉が黄色く色づいていく頃、早稲を作った田を刈り取って干すなど、何やかや趣深いことが集まっているのは秋が特に多い。また、秋の台風の翌朝こそ、実に面白い(このように)いいつづけると、みな源氏物語・枕草子などで使い古されているのだが、同じことを、もう、今更こと新しく言うまいと思うのでない。心に思われて、もやもやたまったことを言わないのは、お腹がふくれていやなことであるから、筆(の進むまま)にまかせては(書き付けていくが、もちろんそれは)、つまらない慰みが書きであって、書いていくそばからすぐに破り捨ててしまうはずのものであるから、人が見るに値するものでもない。
さて、(本筋の季節の話にもどって、)冬枯れのありさまは、秋にほとんど劣るまいと思われる。池の水辺の草に、紅業が散りとどまって、(その上に)霜が、たいそう白く置いている朝、鑓水からもやが立っているのは、おもしろい。年が暮れてしまって、だれも彼もが急ぎあっているころは、この上なく趣深いものである。興ざめなものとして、見る人もない月が、黎々とさえている二十日過ぎの空は、実に心細いものだ。官中での御仏名の法会、また諸陵墓に奉幣使が出発するさまなどは、情越深く、また尊い思いがする。朝廷の儀式が多く、新春の準備とかさねて行われる有様は、すばらしいことである。大晦日の追雌から、(すぐ)元旦の四方拝に続くさまは、実に興味がある。晦日の夜「たいそう暗い中に、いくつも松明をつけて、夜中すぎまで、人の家の門をたたき、走り歩いて、何事であろうか、大げさにわめきたてて、足も地につかないほどあわてまどっているのが、明け方から、何といっても静かになってしまうのは、 一年の過ぎ去ってゆく余情も、まことに心細く感じられるものだ。死んだ人の魂が、この世に帰ってくる夜というので、魂を祭る行事は、このごろ都にはないのに、関東地方では、今でもやっていることであったのは、まことに感慨深いものである。こうして明けていく元旦の空の様子は、暮れの昨日とは変わっているとは見えないが、うってかわって清新な心持がする。都の大通りの様子が、門松を立てめぐらして、陽気でうれしそうなのは、また情趣深い。
兼好の矜持(きょうじ)
季節を主題にして書かれたものといえば、『枕草子』の「春はあけぼの」の章段が思い浮かぶ人が多いでしょう。その他季節の章段の話題も、「木の花は、濃きも薄きも、紅梅。」など、季節と密接に関連したものが多い。 一方、古典文学の中心となる和歌の主題の一つが四季であり、無数の四季の歌が詠まれてきた。読者としては、兼好が何をとりあげ、どういう観点でどういう事を言うのか興味深いが、兼好自身はそれまでの多くの古典がプレッシャーとなろう。
「いい続けて、みな源氏物語・枕草子などで使い古されているのが、同じことを、もう、今更らしく言うまいとは思ってない。心に思い込んでいる、もやもやしたことを言わないのは、お腹(なか)がふくれていやなことであるから、筆(の進むまま)にまかせては(書き付けていくが、当然それは)、相当慰み書きであって、書いていくそばからすぐに破り捨ててしまうはずのものであるから、人が見る価値があるものはない。(←おぼしき事言はぬは腹ふくるわざなら、筆にまかせつつ、あぢききすさびにて、かつ破り捨てるべきものなれば、人の見るべきにもならぬ。) 」という言い訳めいた準備をしている。
『徒然草』でも、雪の日の手紙に雪を話題にしなかった手紙をとがめられたことや、秋の未明の恋人を送り出した後、すぐに戸を閉じず月を眺めている女性の優雅さについてなど、季節と密接に注目した話題が多い。
日本と古典
科学技術の進歩によって、私たちは飢えや寒さ暑さに苦しめられることも少なくなり、便利で快適な生活を手に入れたし、健康で長生きできるようになった。離れた場所に快適に楽しく移動できるようにもなった。でも、得るものがあれば失うものもできるのも真実。秋の訪れを実感したり、月を見て遠く離れて暮らしているいとしい人を思いやったり、風や虫の音・葉色の微妙な変化に感嘆するような感覚と感性が衰弱・退化したのは事実。しかし、時々は、小説や映画やアニメに日本独特の感性を感じる瞬間もある。 やはり、文化伝統の生命力の強さを感じさせられる。
また、この国が異質な勢力に急に支配されたり凌辱(りょうじょく)されずにすんだ。そして、近代はヨーロッパの文物を、第二次世界大戦後はアメリカン・カルチャーを受け入れ、さらに独特な文化として紡ぎ上げられてきました。
地球上で人々が今暮らしているそれぞれの土地は、これまでどんな勢力が暮らしていたのか、あるいは、どんな地域に移動したり侵入したりしてきたのか。移動・膨張・極限・滅びたりの興亡が、急襲・虐殺・収奪・陵辱を伴って続いてきた。この日本は、四方を海で囲まれた地理的条件が幸いして、身を守られる僥倖(ぎょうこう)に恵まれた。
現在、少子化・高齢化・労働力不足の解決法として、移民を積極的に受け入れようとする動きがある。異なる民族を多数受け入れることは異なる価値観・思考法・宗教・歴史観が入ってくることでもある。労働力不足が解決できるとか、異文化との共生によってより豊かな文化になると単純素朴に考えていいものだろうか。また、狭量なナショナリズムで解決できるとも思えない。この国はどういう国か、どういう方向へ向かえばよいのか、そのために必要なのか、何がよいのかが問われている。歴史や古典の素養、地政学的な現実の知識が必要です。【2019.1.16記】
【三大随筆】徒然草|兼好法師 今すぐ心を整えたいあなたへ
~未来への不安、過去への後悔を消す最強古典 ~ 2021/04/01
折節の移り変はるこそ 問題解答(解説)
問1①桜の花も次第に咲きだそうとする、その大事なよい時なのに
(「花」とあったら桜、「やうやう」はやっとではなく、だんだん・次第に、「けしきだつ」は「様子が表れてくる、ここでは、咲きそうになってくるの意。「こそ~已然」の逆接用法にも注意。)
⑦うってかわって清新な気持ちがする
(「めづらし」は珍しいではなく、新鮮な・清新なの意。)
問2 解答例…橘の花は、昔から懐旧の情を誘うものとして有名であるが、
(「花橘」は柑子のことで、特にその花を賞美するので花橘と言う。「名に負ふ」は「名を持つ・有名である」の意。「こそ~已然」の逆接用法にも注意。「さ月待つ花たちばなの香をかげば昔の人のそでの香ぞする」は、橘の花の香りをかぐと、昔親しくしていた人が袖にたきしめていた香の香りがして懐かしいことだの意。)
問3③ハ ⑤ハ
問4 「おけ(カ行四段動詞「おく」の已然)+る(完了助動詞「り」の連体形)」
(他に「急ぎあへる」・「澄める」)
問5 ついな(「おにやらひ」も可。)・疫病を払うとして大晦日に宮中で行われた儀式(現在の節分の豆まきの元となるもの。)
a.Q
(「足を空に惑ふ」は、足が空を向いているような状態を言い、非常に慌てふためくさまの意の慣用表現。)
2 解答例…前日までのあわただしいようすがぴったりと止んで、ひっそりと静まりかえっているから。
(「ひきかへ」は、今日、すなわち、元旦の空の様子が、昨日の空の様子にひきかえの意。「ひきかへ」は、すっかり変えるの意で、「昨日とすっかり様子を変えて、うって変わって」の意。「めづらしき」は「新鮮な、清新な」の意で、単に「珍しい、まれだ」の意ではない。)
3 解答例…春の景色を良いとしている。その理由は、秋の景色が静的・内省的なのに対して、春の景色は人の心を浮き立たせ、生き生きとした生の喜びを人間的に肯定する兼好の態度にかなうからである。
3 解答例…春の景色を良いとしている。その理由は、秋の景色が静的・内省的なのに対して、春の景色は人の心を浮き立たせ、生き生きとした生の喜びを人間的に肯定する兼好の態度にかなうからである。
(67字。内容を把握して、設問の趣旨に沿って七十字以内の制限で答える、記述式の難しい問いとなる。『徒然草』のなかには、『枕草子』とは違って、純粋な叙景文はまれ。そのわずかな叙景文に近いのが「折節の移り変はる」気色を描いたところである。春と秋の比較は、いうまでもなく「『もののあはれは秋こそまされ』と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。」というところである。ここで兼好は、春の気色の美しさを「心の浮き立つもの」として、秋の「もののあはれ(しみじみとした、静的で内省的な美しさ)」と対照的に強調し、生き生きとした生の喜びを人間的に肯定しているのである。)
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