かしらの雪(土佐日記)もっと深くへ !

 『土佐日記』とは

 今から1100年ほど前(平安時代)に、我が国で初めて書かれたとされている日記文学です。

 作者紀貫之(きのつらゆき)が、書き手が女性であるかのように装(よそお)って、ほとんどをかなで書き記しています。内容は、土佐(とさ 現在の高知県)の国司(中央から派遣され,任じられた国の行政・財政・司法・軍事全般を行いました)として赴任(ふにん)し、その任期が終えて京へ帰る一行(いっこう)の55日の出来事を日記風につづった作品です。

 57首の和歌を含む内容はさまざまですが、中心となるのは土佐国(とさのくに)で亡くなった愛娘(まなむすめ)を思う心情、そして行程(こうてい)の遅れによる帰京をはやる思いです。諧謔表現(かいぎゃくひょうげん。ジョーク、駄洒落などといったユーモアという意味)を多く用いていることも特筆されます。


紀貫之について「ウキペディア」に次のように書いています。

 延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している。《中略》日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。


 勅撰和歌集に435首も入集している、名実ともに和歌の巨匠ということができ、また、史上初めて書かれた歌論「古今和歌集」仮名序の作者でもある紀貫之が表した、日記であり、紀行文ともいえます。

 日次(ひつぎ)に書かれたわけではなく、旅の途上で漢文か、かなで書かれたメモをもとに、帰京後、入念に書かれたと考えられています。





1100年前の船旅

 土佐(高知)から京都、現在では車で数時間こちらへ)。楽しく快適にドライブできます。しかし、1100年ほど前の旅は、現在とは異質なものでした。

                                    

  「土佐日記」が書かれた時代、急峻な四国山地のため陸路で瀬戸内海側に出るのは困難。船旅をすることになります。でも、当時の船は、脆弱なつくりで、大波に飲み込まれてしまったり、座礁して大破してしまう危険性にさらされていました。多くの泊りで天候をはかりながらの船旅でした。

 さらに、瀬戸内海を根城にした海賊に襲撃されるとの噂も耳にしていました。貫之はそんな海賊を取り締まる側の国守をつとめていたので、恨みを買っていたと考えられます。

  そんなわけで、ひとつ判断をまちがえればもろとも命さえ失ってしまうような旅であったわけです。55日間にわたる船旅だったとみられます。


かしらの雪(土佐日記)原文/現代語訳はこちら


貫之の観察眼

 十二月二十七日に国府を出港し、年を越して一月二十一日(陽暦で三月三日)室津の泊りで10日間も天候の回復を待ったあげく出航することとなりました。


   春の海に、秋の木の葉しもちれるやうにぞありける。

   春の海に(時ならぬ)秋の木の葉が散っているようであった。

 「春」と「秋」の対照、それに、いっせいに出航する数多くの船を木の葉に見立て。〈古今〉的な見え方とも、表現ともいえる。

 

 10日間も足止めされていたことを嘆くのではなく、こうして出航できたのは、祈願した神の思し召しだととらえているのも、合理主義思考を刷り込まれている現代の私たちとはかなり違うのがおもしろい。

  


 

   貧しくて食べさせることができない家の子が、雑用に使われようとしてついてくる。その子が歌う。


   なほこそくにのかたはみやらるれ、わがちちはは、ありとしおもへば。帰らや。

  やっぱり自分の国の方が自然と見やられる。私の父母がいると思えば。帰ろうよ。

 1100年ほど前の人々の暮らしの違いと、同時に、父母を想う気持ちの共通性も興味深い。

 この子は、芥川の「羅生門」の主人公「下人」の境遇と重ねてみることもできる。

   また、貫之は船頭の言葉に注目する。


   くろとりのもとに、しろき波をよす。」
   黒鳥のところに白い波が寄せている

 船頭に対する作者の目は総じてきびしい。たとえば、人々が別れがたくしている場面で、「潮が満ちてきた。風もよい塩梅だ。はやく船を出そう」とせきたてる。人情というものを解しないと記す(十二月二十七日)。また、コメや酒を与えると機嫌がよくなると、物欲が強くゲンキンなことを批判する。専門であるはずの天気のことまであてにできないのは我慢ならない。「今日は風雲のようすがとても悪い。なので船は出さない」。でも一日中好天だった。この船頭はたわけだとも言っている(二月四日)。

 でも、ここでは船頭ていどの者が、しゃれた物言いをするとしているのです。「なんとはなけれど」と手放しでほめていないのは、書き手の「春の海」「秋の木の葉」の表現における重層性=洗練には及ばないからです。


  ふな旅の困難、海賊襲撃の恐怖を次のように詠っています。


    わが髪の雪といそべの白波といづれまされりおきつしまもり

   私の髪の毛と波の白さとではどちらが白いのだろうか、沖の島守よ


 これは誇張表現ではないのでは。人は、不安やストレスのせいで一晩で胃潰瘍を発症したり白髪(しらが)になることがあると言いますから。

 この返歌を船頭に沖の島守に代わってせよ、とあてこすってこの日の記述はとじられます。

   

 かなで文字表現ができるようになった初期に、これほど高度で緻密で完成度の高い作品が書かれていることに驚かされます。

かしらの雪(土佐日記)原文/現代語訳はこちら

  

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かしらの雪(土佐日記) 問題解答(解説)

問1 現在の午前6時の前後2時間ころのこと十二支の現代の時刻

問2 bは、形容動詞の語「あはれなり」の連体形「あはれなる」の語幹、cは、伝聞推定の助動詞「なり」の連体形。(cの直前「いふ」は、連体形と終止形は同形、文脈から「なる」は伝聞推定。結果として「いふ」は終止形と考える。)

問3 海上での苦労や海難・海賊への不安恐怖心が心身ともに疲れさせ、急激に年を取らせてしまうこと。

(七十歳、八十歳は老年や老衰を表していて、そのように衰える原因が海にあるということ。)

問4 平安時代前期・紀貫之・古今和歌集 

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advanced Q

1解答例…「かぢとり」の「くろとり」「しろなみ」の言葉が、黒と白とを対比的にとらえていたから。

(「ものいふ」とは、口に出して言ふ、気の利いたことを言う、男女が情をかよわせるの意。ここでは、「くろとりのもとに、しろき波をよす。」と「黒」と「白」を対比していっていることを注目している。)

2解答例…嵐に飲み込まれたり座礁したりして、船が大破したり沈没して命を失うことがあるから。

(当時の大洋の船旅での、不安・苦労をまとめます。)

3解答例…「わが髪の雪」歌の返歌となり得るほどの歌は詠めまいと含意する言葉。船旅の気晴らし。

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参考① 土佐日記「帰京」

 岡山県立岡山芳泉高等学校の美術部と放送文化部の共同制作の作品。「帰京」、よくできていますね。

参考② 紀貫之「土佐日記」(ラジオドラマ)

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