あらすじ
不実な夫との生活に絶望して死んでしまいたいと思うが、残される息子(道綱)のことを思うと死にがたい。「いっそ出家して、夫婦仲が思い切れるか試してみよう。」と言うと、道綱は「それなら私も、一緒に出家するんだ。」と言って泣きじゃくる。私は「出家なさったら鷹も飼えなくおなりになるのよ。」と言い紛らわそうとすると、道綱は大事に飼っていた鷹をつかんで放ってしまった。その際詠んだ歌、「争へば思ひにわぶる天雲にまづそる鷹ぞ悲しかりける」。夕方、夫からまたでたらめの手紙が届けられた。「今は忙しいので返事ができない。」と意趣返しをしてやった。
この時作者36才。子息道綱は16才、成人してもいい年齢、「泣きじゃくる」は創作めく。
作者はどんな人?
当時の女性の名は多くは伝わっていません。清少納言も紫式部も正規の姓名ではなく、通称です。『蜻蛉日記』の作者は、藤原道綱の母親だったので藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)とよばれています(道綱ママです。道綱の後の官職名から右大将道綱の母ともよばれています。)。
父親が地方官を歴任した、中流階級の娘。少女時代、和歌の素養、漢詩文の知識、琴・絵画・裁縫の技芸を培(つちか)ったと伝えられています。
夫の藤原兼家はどんな人?
時の右大臣師輔(もろすけ)の三男。藤原北流の嫡流(ちゃくりゅう)、トップ階級の貴族。作者と結婚する前から藤原中正の娘時姫という正妻がいて、道隆・道兼・道長・超子・詮子らを産み、将来男子は摂関家の後継に、女子は入内(じゅだい)して女御(にょうご)となるなどして藤原摂関政治の隆盛期を支えることとなりました。
どういう夫婦関係?
平安貴族の結婚の形は現代の私たちとはまったく異なる招婿婚(しょうせいこん、こちらを)。一夫多妻制で正妻は一人ということになっていました。
兼家には妻妾(さいしょう=つまとめかけ)が十人ほどいたらしい。娘を入内(天皇の后となる)させるようなトップ階級の権勢家として普通のこと。妾(しょう)となる作者は道綱を産むが、兼家との不和がもとでこころ安まる日々はないようでした。当時の一夫多妻のあり方や身分差を考えれば、二人の夫婦関係はむしろ良好なものであったといえそう。しかし、兼家の愛情を一途(いちず)に求めようとしたところに、二人の不和と作者の苦悩が続いたともいえるでしょう。
「争へば思ひにわぶるあま雲にまづそる鷹ぞ悲しかりける」とは
表現史上の位置
鷹を放つ 問題解答例(解説)
問1 たまは
(道綱の会話文の一節、「そのようにおなりになるならば、私も法師になってしまおう。」という文意から、「たまへば」ではなく仮定条件となる「たまはば」と考える。)
問2 やはりなんとかして心から死にたいものだ
(「にしがな」は願望の終助詞。「いかで…願望」のパターン、ナントカシテ…タイモノダ。)
問3 藤原道綱
(作者の子息。作者の名は未詳なので、藤原道綱母ということになっています。)
問4 ③め ④ね
(③は文意から意志の「む」、「こそ」の結びとなり「め」。④は「え…打消」のパターン、「ど」は已然形接続の接続助、よって「ね」。)
問5 据ゑ
(ワ行下二は「飢う・植う・据う」の3語のみ。文意に適うのは「据う」、「たり」は用接続の助動詞、よって、「据ゑ」。「据え」としないこと。)
問6 あま・そる
(あま=天・尼、そる=逸る・剃る。)
問7 平安時代・藤原道綱母・更級日記
advanced Q
1 将来が安心できる
(形容詞「後ろ安し」の未然形、気安い・先が安心だ・心配がない、の意。)2 鷹は鷹狩りに使うもので殺生になるので、出家したら当然鷹は飼えなくなること。
(「鷹狩り」とは、タカ科のイヌワシ、オオタカ、ハイタカ、およびハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類や哺乳類(兎・狼・狐など)を捕らえさせること。仏教では殺生戒〈セッショウカイ〉を破ることとなる。)
3 作者が剃髪して尼になることと、鷹が空に飛び去ることを。
(「掛詞」は、縁語とともに『古今集』時代から盛んとなった。「遭ふ/逢(あふ)坂」・「憂き/浮き」・「起く/置く」・「離(か)る/枯る」・「眺め/長雨」・「波/無み(無イノデ)」・「春/張る」/「日/火/思ひ」・「待つ/松」・「夜/寄る」などがよくつかわれるので頭に入れておくとよい。ここでは、「あま」が天(空)と尼(出家した女性修行者)、「そる」が逸る(それる・思わぬ方向に進む)と剃る(剃髪する)に掛けられている。)
コメント
コメントを投稿