沓冠折句(くつかぶりおりく)の歌
『俊頼髄脳 』
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沓冠折句の歌(『俊頼髄脳 』)現代語訳
沓冠折句(くつかぶりおりく)の歌という詠み方がある。十文字ある物の名を、(歌の五七五七七の各)句の上下に(それぞれ一字ずつ)据えてよんだ歌である。
「合はせ薫き物少し(ください)。」といった内容を(各句の上下に)置いてよんだ歌、
逢坂も 果ては行き来の 関もゐず 訪ねて来ば来 来なば帰さじ
(逢坂の関も夜更けになれば、往来を取り締まる関守もいなくなる。(同じように、ここも夜更けになれば人目がなくなるので、)訪ねて来るなら来なさい。もし来たら、帰さないで愛してあげよう。)
この歌は、光孝天皇が、後宮の女御・更衣たちに差し上げなさったのだが、だれも(歌の意図が)理解できず、それぞれ返歌を差し上げなさったのだが、(その中に)広幡の御息所と申した方が、ご返歌はなくて、練り香を差し上げたので、(天皇は)和歌のたしなみの深い人だと感心なさっていたと、語り伝えている。
「をみなへし・花薄(はなすすき)」といったことを、(各句の上下に)据えてよんだ歌、
小野の萩 見し秋に似ず 成りぞ増す 経しだにあやなしるしけしきは
(小野の萩は、(去年の)秋に見たときとすっかり変わって、たくさん増えている。あなたを長い間訪れなかったのは失敗だったなあ。萩でさえ一年の間にこんなに変化しているのだから。(あなたがこんなに美しく成長したと知っていたら、放っておきはしなかったよ。)
この歌は、各句の下に置いた「花薄」を、逆から読まなければならないのである。これも一つのよみ方である。
「俊頼髄脳」(としよりずいのう)とは
平安時代後期に源俊頼(みなもとのとしより)によって書かれた歌論書。歌論書とは、和歌に関する評論および理論書のことで、歌の定義や要素、分類、歌病などのほかに、歌集の校訂や注釈、類纂(るいさん=同じ種類のものを集めて本を作ること)、歌書の文化史的研究などを含みます。訓詁注釈(くんこちゅうしゃく=古典を解釈・説明する事)をはじめとして学問的傾向の強いものは歌学書とも呼ばれます。藤原浜成(ふじわらのはまなり)『歌経標式(かきょうひょうしき)』、壬生忠岑(みぶのただみね)『忠岑十体(ただみねじったい)』、藤原公任(ふじわらのきんとう)『新撰髄脳(しんせんずいのう)』『和歌九品(わかくほん)』などが書かれていました。
「俊頼髄脳」は、歌論として体系的に書かれたものではなく、若い女性の作歌手引きになるように、和歌全般の知識と、和歌説話を多分に盛り込んでいます。
源俊頼とは
平安後期の歌人。経信(つねのぶ)の子。俊恵(しゅんえ)の父。自由清新な和歌によって高く評価され、保守派の藤原基俊(もととし)と対立した。金葉集(きんようしゅう)を撰進。家集「散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)」、歌学書「俊頼髄脳」。こちらを。
沓冠折句(くつかぶりおりく)
沓冠折句の歌(『俊頼髄脳 』)解答(解説)
問1 歌論書 平安時代後期
問2 据ゑ(二行目と後から三行目。「植う・飢う・据う」はワ行下二と覚えるしかありません。)
問3 くつかぶりおりく
問4(1) b ロ c イ d ヘ e イ
(2)訪ねてくるなら来なさい
(3)各句の初めの五文字に「あはせたき」、終わりの五文字に「ものすこし」と詠みこんである。
問6 帝は、広幡の御息所は歌のたしなみを心得ている方だなあとお思いになって
問7 はなすすき(本文末の「下の花薄をば、逆さによむべきなり」から)
問8 各句の初めの「唐・き・つ・旅」に「かきつばた」と詠みこまれている。
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