行成、実方のために冠を打ち落とさるる事
(十訓抄)
~起こしてはならぬものは ?
「行成、実方のために冠を打ち落とさるる事」を現代語で
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行成は少しも騒がないで、主殿司(とのもづかさ 後宮に仕える下級の女官)をお呼びになって、「冠を取って参れ。」と言って取りに行かせ、もとのように冠をかぶって、守刀(まもりがたな)からこうがい(髪をすき上げる道具)を抜き出して、乱れた鬢(びん)の毛を整えて、居ずまいを正して、実方に向かい、「どのようなことでございましょうか。突然にこれほどの乱暴な仕打ちを受けなければならないことは、思いも寄りません。そのわけをお聞きして、どうするかは、そののちのことであるべきではないでしょうか。」と、礼儀正しくおっしゃった。実方は拍子抜けして、逃げてしまった。
ちょうどその折も折、昼の御座の小蔀(こじとみ=小型の窓)から一条天皇が御覧になっていて、「行成はすぐれた者である。このように落ち着いた心があろうとは思いもしなかった。」とおっしゃって、そのとき蔵人頭(くろうどのとう 天皇の首席秘書に相当する重職)が空席になっていたので、多くの人を飛び越えて、行成を任命なさった。実方のほうは、中将の官職をお取り上げなさって、「歌枕(うたまくら=歌に詠まれる有名な土地)を見て参れ。」とおっしゃって、陸奥守(むつのかみ)に任命して、奥州へ派遣なさった。実方はそのままその地で亡くなってしまった。
実方は、蔵人頭にならないで終わってしまったのを恨んで、この世に執着が残って、雀となって、殿上の間の小台盤にとまって、台盤(だいばん=食器を乗せる台)をつついていたということを、人が言っていた。
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忍耐の大切さ
「忍」に耐えられないで行動を起こした実方と、「忍」の徳目に従ってふるまった行成との、二人のその後の運命が、因果応報的に典型的に描かれた説話となっています。つまり、「起こしてはならぬもの」の一話は、「忍」に耐えられないで短気を起こすことをいましめるものです。
ところで、なぜ実方が行成に対して立腹(りっぷく)していたのかはここでは不明ですが、これにかかわるような話が『撰集抄』(せんじゅうしょう⇨こちら)にあります。
殿上人(てんじょうびと)たちが東山に花見に出かけた時、急に雨が降ってきて、人々はあわてました。実方は、慌て騒がず、桜の根元に行き、「桜狩り雨は降りきぬ同じくは濡るるとも花のかげに宿らむ(桜狩にきて、雨が降ってきた。どうせ濡れるなら、桜の木陰に居ようじゃないか)」と詠みましたが、着物が絞(しぼ)っても絞れないほど濡れてしまいました。人々は実方の風流さを誉(ほ)め、帝にもそのことをお話し申し上げた。その時蔵人頭(くらうどのかみ)であった行成は、「歌はおもしろし。実方は、をこなり。」と言った。歌の趣向としてはおもしろいが、それを実行するなんて愚かな者だ。それを実方は伝え聞いて恨みを抱くようになったといいます。
そういう事情があったのなら脈絡はつきます。ただし、そこでは行成がすでに蔵人頭であったとするので、「忍」によって昇進したとする話とは矛盾することとなります。たしかな原因はわからいというべきでしょう。
実方は、死後、転生して雀(すずめ)になったといわれていわれています。また、霊となり加茂川の橋に現れたとも語られていたらしい。
さまざまなうわさ話や憶測がまことしやかに語られ、聞いた人なりに解釈され伝承されていくうちに、そのうちの一つが文字として記録され定着していったものでしょう。現代のうわさ話や週刊誌記事などと通じると言えるのでしょうか。
行成と実方とは
行成…藤原行成(ふじわらのゆきなり)。権大納言(ごんだいなごん)まで昇進。一条帝の時代に活躍した公卿四納言(しなごん)の一人。多才有能で、また、書に堪能(たんのう)で小野道風(おののとうふう)・藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟(平安中期の三人の書道に傑出した人)の一人に数えられました。
実方…藤原実方(ふじわらのさねかた)。左近衛将監(さこんのえじょうげん)を経て、侍従、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と順調に昇進する。左近衛中将に叙任され公卿の座を目前にしますが、長徳元(995)年正月に突然陸奥守(むつのかみ)に左遷されました。中古三十六歌仙(「歌仙」は和歌に優れた人)の一人。勅撰和歌集に64首入集する著名な歌人です。
十訓抄(じっきんしょう)とは
鎌倉時代に成立した説話集。年少者のために、「第一 人に恵を施すべき事」をはじめ十項目の徳目をあげ、各編にふさわしい説話を列挙しています。儒教色が強く、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の、実際的な啓蒙(知識を与えること)書となっています。
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