兼通と兼家の不和
(大鏡)
人でなしの兼家に、兄の兼通、死を目前にした報復
兼通と兼家の不和(大鏡)を現代語で
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危篤(きとく)の兄兼通と弟兼家のふるまい
兼通、危篤の身ながら、参内する
兼通公は「兼家公が見舞いにいらっしゃったら、関白職などをゆずることなどを相談申し上げようと思っていたのに。こんな性格だからこそ、年来不仲であり続けたのだ。息絶えそうな兄のことをそ知らぬ顔です通りするとは心外で、いらだたしいことだ。」とおっしゃって、なんと、今にも息が絶えそうなありさまで臥(ふ)していらっしゃったお方が、「私を抱き起こせ。」とお命じになるので、おそばの人々もいったいどうしたことかと不審に思っていると、兼通公は「車の支度(したく)をせよ。先払いの者どもをそろえよ。」とおっしゃるので、人々は物の怪(け)がおとりつきになったか、正気ではなくうわごとでもおおせになるのかと、けげんに思ってごようすを拝見していると、兼通公は冠(かんむり)をお召し寄せになって、装束(しょうぞく)などをお召しになって、牛車(ぎっしゃ)で宮中へ参内なさって、内裏の門の警護の詰め所から内はご子息たちの肩に寄りかかって、清涼殿(せいりょうでん 天皇の日常お住まいになる御殿)の北東の滝口の陣のほうから殿上へお昇りになって、帝の御前へ参上しようとして、清涼殿の孫廂(まごひさし)にある昆明池(こんめいち )の描いてある障子の所にお姿をおあらわしになると、清涼殿中央の帝の昼の御座には、ちょうど兼家公が、帝の御前でご拝謁(はいえつ)なさっているところであった。兼通、死の目前に除目(じもく)を行う
兼家公は、兼通公がすでにお亡くなりになったとお聞きになって、帝に次の関白職に自分をとお願い申し上げようとお思いになって、この兼通公の邸の門前をす通りして、参内して奏上(そうじょう)申し上げなさっているところに、兼通公が、目をかっと見開いてお出でましになったので、帝も兼家も、びっくり仰天なさる。ところが、兼家公は、兼通公をちらりと見て、立ち上がって清涼殿の西廂(にしびさし)の南にある鬼の間のほうへ行っておしまいになった。兼通公は、帝の御前にひざまずきなさって、ひどくふきげんなご様子で、「最後の除目(じもく=人事異動)を行いに参上したのでございます。」と言って、蔵人頭(くろうどのとう)をお呼びになって、関白には頼忠の左大臣を、また、兼家公の大将職を取り上げて、かわりに小一条の済時(なりとき)中納言を大将職に任じ申すとの宣旨(せんじ)を下して、兼家公を閑職の治部卿に降格任命申し上げて、ご退出なさって、兼通公はまもなくお亡くなりになったのですよ。意地っ張りのご気性でいらしたお方で、あれほど危篤の状態でいらっしゃったのに、憎しみのあまり参内申し上げなさったありさまは、他の人はとてもまねできないことですよ。ここは、『大鏡』の登場人物の一人である世継(よつぐ)が「兼通(かねみち)公が関白の職を弟の兼家ではなくいとこの頼忠に譲ったことは、世間から批判された。」と言ったのを受けて、これも、登場人物の一人、聞き手の若侍(わかざむらい)がその背景を述べている場面です。
若侍は兼通を次のように弁護するのでした。
兼通・兼家兄弟は、官位昇進の競争をして不仲であったが、兼通が重病に陥(おちい)ったとき時、弟の兼家が兼通の邸のほうへ向かってきたので、さすがに見舞いに来たのだなと思い、和解する気持ちになった。ところが、兼通の邸の前をす通りして参内(さんだい)したのでした。怒った兼通は病をおして参内(さんだい)し、最後の除目(じもく=人事異動)を行い、関白をいとこの頼忠に譲り、兼家の官(近衛の大将)を奪ってこれをこれもいとこ済時(なりとき)に与え、兼家を閑職へ追いやって、思いを遂げた後、死去した。臨終ま際とみえた身で、あのような行動をとることは、他人にまねができないことだ。兼通が悪いのではなく、弟の兼家の方に人間としての欠点があるのだ。そもそも兼家を差し置いて関白の地位に就いたのも、妹の中宮安子に依頼して事前に備えをしていたからであって、兼通は意志強固で賢明でいらっしゃるお方だ、と。
「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」が、これもかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
チャイナの正史の形式紀伝体にならって書かれています。二人の二百歳近くの老人とその妻、それに若侍(わかざむらい)とする登場人物との、雲林院(うりんいん、うんりんいん。こちらを)の菩提講(ぼだいこう。こちらを)での会話を、筆者が筆録しているというスタイルで書かれています。これも独創的な記述の仕方で、登場人物の言葉がその性格や場面に応じており、簡潔で躍動的、男性的な筆致と相まって、戯曲的効果を高めているものです。
「大鏡」は、約百九十年(語り手の世継の年齢とほぼ一致)の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、清少納言などの平安女流が表側の世界を描いたのに対し、「大鏡」は裏側の世界を描いたともいえます。
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