時平と道真(大鏡)~極悪人とされる、時平の別の顔

                                 

 時平と道真 

(大鏡)

 ~極悪人とされる時平の別の顔 


  時平と道真(大鏡)を現代語で

時平と道真(大鏡)原文+現代語訳はこちら

悪人時平の別の顔

 菅原道真公が自分の娘婿斉世(ときよ)親王を帝位につけることをひそかに計画していると、作り話を天皇に申し上げて、無実の罪に陥れ、大宰帥に左遷させるというような悪事を実行なさった罪の罰で、この藤原時平公のご子孫は繁栄なさらないのです。そうはいうものの、時平公は大和魂などは、すぐれていらっしゃいましたのですよ。

並外れた政治力

 延喜の帝醍醐(だいご)天皇〕が、世の中の風俗習慣を取り締まりなさいましたが、度を越したぜいたくを抑制なさることができないでいらっしゃいました。

 そんな時、時平公が、禁制を破ったお召し物で、とりわけ立派なのを身につけて、内裏(だいり)に参上なさって、清涼殿(せいりょうでん=天皇が日常お住まいになった建物)の殿上の間(=最上級貴族が控える部屋)に伺候していらっしゃいました。

 が、それを昼の御座の小蔀(こじとみ=小窓)からご覧になって、ごきげんがひどく悪くおなりになって、蔵人(くろうど=天皇の私的な秘書的仕事をする官)をお呼びになって、「世間のぜいたくの禁制を厳しく命じているこのころなのに、左大臣(=時平)が、臣下最高の身分というものの、特別華美ぜいたくな服装で参内するとは、ふつごうなことだ。早々に退出せよという旨(むね)を申し伝えよ。」とお命じになりました。

 勅命をお伺いした蔵人は、「そんなことをあの左大臣(=時平)様に伝えたりしたら、いったいどんなことになるだろうか。」と恐ろしく思ったが、時平公のところへ参って、ぶるぶるふるえながら、これこれの仰せですと申したところ、時平公はとてもびっくりして、恐縮してのお言葉を承(うけたまわ)って、ご随身(ずいじん=護衛)がお先払いをするのもご制止になって、急いで宮中からご退出になったので、お先払いの者どもは不審に思ったのでした。


 そうして、時平公は本院のご自邸のご門を一か月ほど閉じさせて謹慎し、ご自身は、御簾(みす)の外へもお出ましにならず、人などがご訪問申し上げるのにも、「のおとがめが重いから。」と仰せになって、お会いになりませんでした。

 こんな具合であったので、世の中のぜいたくの風潮がなくなったのです。内々に(真相を)よく承(うけたまわ)りましたところ、実は、そういうふうにしてこそぜいたくもおさまるだろうというので、時平公とがお心をお合わせになってなさったということです。

以外な人柄

 時平公はおもしろいことがあると、それを我慢おできになりませんでした。いったんお笑い出しになると、少しばかり物事も乱れておしまいになったとかいうことです。

 菅原道真公と一緒に政治をお執りになったころ、時平公が道理に合わないことを仰せになったので、道真公は何といっても相手が尊い身分の時平公なので、「強引になさることを、どうしてお止めできようか。」とお思いになって、「この大臣〔時平〕のなさることだから、不都合だと思うが、どうしたらよかろうか、いや、どうにもしようがない。」と嘆いていらっしゃったところが、なんとかいう名の太政官の書記が、「なんでもないことです。私めが、必ず大臣〔時平のなさることを止めましょう。」と申したので、道真公は「そんなことができるはずはない。どうやってお止めしようとするのか。」などと仰せになったが、その書記は「ただ御覧になっていてください。」と言って、時平公が座に着いて、訴え事を厳しく裁定して、声高くがなりちらしておられるときに、この書記官は、文挟(ふみばさ)みに書類を挟んで、極端におおげさな身振りをして、時平公に差し上げようとして、その瞬間実に高らかに一発やらか(放屁)したわけでございますが、時平公は、その文書を手に取ることもできず、手をふるわせて笑いをこらえ、そのまま笑い出して、「今日はどうにもしかたがない。右大臣〔道真〕にお任せ申す。」とその言葉さえも満足に言い終えなさらぬありさまでしたから、そのおかげで、道真公が、お思いどおりに決裁をお下しになられました。

北野天神縁起承久本巻5
-雷神に向かう時平(部分)

雷神道真
 また、道真公が、死後雷神
(らいじん)におなりになって、とても恐ろしく雷鳴(らいめい)して光りきらめき、清涼殿に今にも落ちかかってしまうと見えましたが、その時本院の時平公が、太刀を抜き放って、「存命中も貴殿は私(=左大臣)の次位の右大臣におられた。今日、たとえ雷神とおなりになったといっても、この世においては、当然、上位の私に敬意を払うのが当然ではないか。どうして、そうならずにすまされようか。」と、雷神のほうをにらんで仰せになったのでしたよ。それで北野(道真)の雷神も一度はお静まりになったそうだと、世の人々は申しました。

 しかし、時平公の毅然(きぜん)とした態度にひるんだと思えたのは、実は、時平がお偉いからではなく、天皇の威光が限りなくあらせられるのによって、道長公が、朝廷におけるきまりや官位の秩序について、道理と道理に反することとのけじめをお示しになったのですよ。(左大臣時平)

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浮世絵・歌川豊国「菅原道真 藤原時平」
(飯能市 円泉寺)



  藤原時平・菅原道真とは

藤原時平(ふじわらのときひら)

 平安時代前期の公卿(くぎょう=高官)。若くして栄達した藤原時平は、醍醐天皇が即位すると左大臣として政治の頂点に立ちました。改革に意欲的に取り組みましたが、39歳で早世しました。特に有名なのは、昌泰の変において菅原道真(すがわらのみちざね)を左遷したことで知られ、天神(てんじん= 道真)の怨敵とされています。後世の説話では、讒臣(ざんしん=告げ口をして主君におもねる臣下)や極悪人として描かれることもある一方、時平信仰として神として祀られる地域もあります(たとえばこちら)。


菅原道真(すがわらのみちざね)

 平安時代の学者であり政治家で右大臣まで昇進しました。優れた政治家であり、その能力ゆえに妬(ねた)まれ、恨まれる人物だったとされています。身に覚えのない罪で都から遠く太宰府へと左遷されました。遣唐使を中止する提案をし、日本の国風文化を開花させるきっかけとなりました。最終的に太宰府で孤独の死をむかえました。

 道真が没した後、道真をおとしめた時平などの関係者が病死したり災害にあったりしました。これを人々は道真の祟(たた)りだと惧(おそ)れ、その怨霊を鎮(しず)めるため天満天神(てんまんてんじん)として祀(まつ)るようになりました。京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう こちらを)をはじめ、各地に天満宮が存在し、学問の神様としても尊ばれ、多くの受験生が合格祈願に訪れるところでもあります。次は道真の詠んだ名歌。

 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

 〔春になって、東(都から)の風が吹いたならば、その香りを(大宰府の)私のもとまで送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、花開く春を忘れてくれるな〕

 大宰府に左遷された道真が、ともに育ってきた邸の紅梅殿の梅にむけて詠みかけたところ、梅は一夜のうちに都から大宰府に飛来してきたという伝説があります。



〈大和魂〉の持ち主の時平

 菅原道真は、藤原時平に無実の罪に陥れられて太宰府に左遷され、その地で不遇孤独なまま亡くなったとされています。 道真の怨敵とされ、讒臣(ざんしん=告げ口をして主君におもねる臣下)・極悪人として描かれました。

 ここでは、時平へのそういう評価が一般的であることを認めたうえ、あえて時平の美点を語っているのです。

 その美点とは、時平は〈大和魂〉の持ち主であったということです。

 〈大和魂〉とは、80年前までの戦時中は、国のためには命を捨てるのも恐れない勇敢で潔い精神というような意味でつかわれていて、現在では不快感や嫌悪感を持つ人もいます。

 現代では、スポーツなどの世界的な大会で、正々堂々とした姿勢でとか、日本人の意地とか、日本代表としての誇りとかをもって臨むことを言うものなのでしょうか。


 この「大和魂」という言葉は平安中期(1,000ほど前)ごろからあらわるもので、その頃は教養や知識・学問に関係ない、日常生活の知識とか、事務処理の能力とか実行力といったものだったようです。現代の私たちの「大和魂」のイメージとはかけ離れているなと感じますよね。


 この話では、醍醐天皇時平がひそかに相談して、左大臣の時平がわざと禁を破って華美な服装をして参内し、天皇からおとがめを受けることを演じて、世に横行する華美贅沢の風潮をしずめる。ここでは、政治家時平がどういう計画を立てて実際的な効果を上げたかが描かれており、「大和魂などは、すぐれていらっしゃいました」としているわけです。人臣最高位にある時平でさえ贅沢をすると勅勘(天皇からのおとがめ)をこうむるという計画を立て実行し、華美の風潮を抑える政治目的を実現した。巧みで実務的で実行力のあることを、〈大和魂〉としているようです。教養や知識・学問=〈漢才(かんざえ)〉とは対照にあるものとしているようです。

 この計略にたけた能力は、道真を讒言(ざんげん=他人を貶めるための悪口)して失脚させるような悪事をやってのけたところにも表れているともいえるでしょう。


憎めない時平

 続いて語られているのは、笑い上戸の時平が、ある部下のわざとおならをすると策にはまって、執務を続けられなかったということ。ありもしない作り話をして道真を陥れるなど陰険な策士のように伝えられるが、ほほえましい一面も有していたのだと語っているわけです。


祟り・怨霊の時代 

  最後に、亡くなったあとの道真が雷神になって清涼殿を襲った話になります。時平は剣を抜き一喝してこれを退散したといいます。神をも恐れないで毅然たる態度をとる時平の姿が描かれているわけです。

 しかし、事の本質は、右大臣(道真)が上位にある左大臣(時平)を威嚇して命に服さないなら、朝廷の秩序を乱し王威に服さないことになるので、道理に従って時平の言を聞き入れたのだとしてます。このような死んで雷神となっても朝廷の秩序を重んじる道真の姿勢を評価する話としているわけです。

♢ ♤ ♡ ♧ 

 祟りだの怨霊だの、現代の私たちは受け入れがたいものですが、古代人は天候不順や天変地異、飢饉や疫病の流行を、神や、憤死した貴人の祟(たた)りだとも考えました。

 たとえば、長屋王をでっち上げた罪によって自害させた藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の子が、その後全員が一瞬といっていいうちに天然痘に罹患して命を失ったこちらを) のは、長屋王の祟りによるものだったーそんな風に感覚し判断し、考えを組み立てていた当時の人々のありようを理解し受け入れ、追体験しなければ、この「時平と道真」も本当には理解できないでしょう。

 

  歴史は、アカディズムが記述している政治・経済(下部構造と呼んで最重要視する流派もいます)が作るだけではなく、それと同じくらい、時にはそれより深いところで呪い・祟(たた)り・怨念といった宗教的信仰的なものが突き動かしていると考えることもできるのです。

♢ ♤ ♡ ♧

 「大鏡」とは

 摂関政治こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。

 それまで歴史は「日本書紀こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がこれもかなで書かれました

 チャイナの正史の形式紀伝体に倣って書かれています。二人の二百歳近くの老人とその妻、それに若侍という登場人物との、雲林院(うりんいん、うんりんいん。こちらを)の菩提講(ぼだいこう。こちらを)での会話を筆者が筆録しているというスタイルで書かれています。独創的な記述の仕方で、登場人物の言葉がその性格や場面に応じており、簡潔で躍動的、男性的な筆致と相まって、戯曲的効果を高めているものです。

 「大鏡」は、約百九十年(語り手の世継の年齢とほぼ一致)の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、「枕草子」が正の世界を描いたのに対し、「大鏡」は負の世界を描いたともいえます。

 

北野天満宮【京都】


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