四面楚歌(史記)~抜山蓋世(ばつざんがいせい)の詩

 四面楚歌 

 『史記』 

 ~抜山蓋世(ばつざんがいせい)の詩  

  「四面楚歌」とは
 「四面楚歌(しめんそか)」とは、まわりを敵や反対者に囲まれて孤立し、助けのない状態のたとえです。この言葉は、中国の歴史に登場する項羽(こうう)という人物の故事に由来します。項羽は、漢の劉邦(りゅうほう)に追い詰められ、四方から自分の出身地であり本拠地である楚の歌を聞いて、自分の部下が裏切ったと思い込んだという話です。


  「四面楚歌」(『史記』)を現代語で

 項王軍は垓下(がいか)の城壁の中に立てこもった。兵の数は少く食料も尽きた。漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲んだ。夜、周りを取り囲んだ漢軍が全員で楚の地方の民謡を歌うのを聞いた。 項王は、思いがけないことでたいへん驚いてこう言った。「漢はことごとくすでにわが地の楚を得てしまったのか。何と楚の人間が多いことだ。」

 項王はそこで夜中にも関わらず起きあがり、陣の帳(とばり)の中で宴(うたげ)を張った。(ぐ)という名前の美人がいた。常に項王に寵愛されつき従がっていた。(すい)という名の駿馬(しゅんめ)があった。常に項王はこの馬に乗った。そこで項王は悲しげに歌い、憤り嘆いて、自ら詩を作った。

 力抜山兮気蓋世  
  力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ
  我が力は山をも引き抜き、我が気はこの世をも覆う
 時不利兮騅不逝
   時(とき)利あらず騅(すい)逝(ゆ)かず
  時の運は我に利なく、駿馬(しゅんめ)騅も疲れ果て走れない
 騅不逝兮可奈何
  騅(すい)(ゆ)かざる奈何(いかん)すべき
  騅が走らない、どうしたらよいのか
  虞兮虞兮奈若何

  虞(ぐ)や虞や若(なんぢ)を奈何(いかん)せん

  虞よ虞よ、そなたをどうしたらよいのか
 
 項王は繰り返し歌い、もともに歌った。項王ははらはらと涙を流した。側近の者たちも皆泣き、誰も仰ぎ見ることができなかった。

四面楚歌(史記) 原文/書き下し/現代語訳こちらへ)


  垓下(がいか)の戦い

  (しん)を滅ぼした後、〈西楚の覇王〉と称して天下第一の実力を誇った項羽(こうう)と、奥地の漢中(秦代からの郡名。陝西省センセイショウ南部~湖北省西部。)に封ぜられ(=諸侯に任じられること)ながらもあくまで天下を狙い続けた劉邦(りゅうほう)は、五年にわたって激闘を繰り返しました。項羽側は、初めは圧倒的に優勢でしたが、部下の諸将から劉邦側に寝返る者があいつぐなどして、しだいに旗色が悪くなり、ついに包囲されて窮地に陥(おちい)ったのです。紀元前202年のことでした。今から2200年以上前のことです。


 鴻門の会(記事はこちらへ)から四年後、項羽(こうう)は漢軍に追われ、垓下(がいか)の城に立てこもることとなりました。漢軍(劉邦の軍)と諸侯の兵が幾重にも包囲していました。その中から、項羽の故郷の楚の歌を歌っているのが聞こえてきました。項羽はもはやこれまでと、愛する(ぐ)美人とともに最後の酒宴をひらき、辞世の歌をよんだのでした(「垓下の戦い」の動画はこちらから)。


 力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ  
  我が力は山をも引き抜き、我が気はこの世をも覆う
 時利あらず騅(すい)逝(ゆ)かず
  時の運は我に利なく、駿馬(しゅんめ)騅も疲れ果て走れない
 騅逝かざる奈何(いかん)すべき
  騅が走らない、どうしたらよいのか
 虞(ぐ)や虞や若(なんぢ)を奈何せん、と
  虞よ虞よ、そなたをどうしたらよいのか、と

  (「騅」は項羽の愛馬の名、「虞」は愛妃の名。この歌を第一句より「抜山蓋世(ばつざんがいせい)の詩」と呼ばれます。)

 

 項羽は「力抜山兮気蓋世(力は山を抜き気は世を蓋ふ)」と、最後の最後まで自負心にあふれていたようです。そんな自分が今はこれまでという状況に追い込まれたのは、時が自分に味方してくれなかったからだととらえています。しかし、司馬遷はそれとは別の評価をしています。司馬遷は、項羽自負心が強すぎて独断的であったり、他者を信用できなかったり、残虐であったり、冷静な判断ができなかったりすることで、人心を失い、結局敗残の運命にあったととらえてえがいているようです。

 そんな項羽も愛妃(ぐ)への断ちがたい思いを口にするような情愛深い面があったことも語られています。ここはそんな項羽の悲劇的で抒情的な場面です。

 『史記』の項羽本記(こううほんぎ)に書かれ、わが国でも人気のある場面です。


項籍 - 四面楚歌


四面楚歌(史記) 原文/書き下し/現代語訳こちらへ)

  『史記』とは

 前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。今から2100年ほど前の紀元前90ころ成立。

 宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷(しばせん)自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。

 帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれるもので、司馬遷(しばせん)が創始した形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。

 『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡(ちらんこうぼう)の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、文学作品としても人気を保ってきた史書でもあります。

 今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』が編纂(へんさん)される約850年も前に書かれたことになります。


【参考】

司馬遷とは

 『史記』を著述、もしくは編者したとされる歴史家。
 中国前漢時代の人物。後世に残した影響は大きく、彼の残した史記は、歴史的だけでなく文学的にも重要視されている。
 20代のころには中国各地を旅行している。その後漢王朝に仕え、同じく仕官していた父の跡を継ぎこの書物の編纂を始めるものの、単独行動の末捕虜となった将軍李陵(りりょう)に対し弁護したため牢獄に繋がれ宮刑に処せられる。その後大赦(たいしゃ)により牢獄から出て6年、本書は完成する。
 また、歴史の考察や人物の評価においてはかなり合理的かつ辛辣(しんらつ)であり、三皇五帝の伝説に対して、現実的にはあり得ないだろうと前置きしつつも、伝説の分布している地域に共通点があると言う理由で「歴史」としてまとめたり、天の意思や超常的な存在による運命の変化などは否定し、本人の運命はあくまでもこれまでの積み重ねの帰結であると言う立場を貫いている。(『ピクシブ百科事典』より)


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