関路(せきじ)の落葉
『無名抄(むみょうしょう)』
~能因歌へのオマージュ
鴨長明『無名抄』とは
鴨長明(かものちょうめい)
鎌倉前期の歌人。山城国(やましろのくに⇒こちら)日野の外山(とやま)に方丈の庵(いおり)を結び、隠遁(いんとん)生活を送った。他に、随筆「方丈記」、説話「発心(ほっしん)集」を記している
『無名抄』(むみょうしょう)
歌論書。鴨長明(かものちようめい)作。和歌に関する八十項目に及ぶ評論集で、歌人の逸話や古歌の遺跡などが随筆ふうに書かれている。幽玄(ゆうげん)体が評価されている。
歌合とは
歌合(うたあわせ)とは、平安時代に貴族の間で盛んに行われた、和歌の優劣を競う遊戯です。左右に分かれた歌人が、それぞれが詠んだ歌を提出し、それを判者(はんじゃ)が優劣を判定します。
歌合の目的は、単に歌の技巧を競うだけでなく、教養や家格を誇示する場でもありました。そのため、華やかな衣装をまとい、趣向を凝らした演出がなされることもありました。また、歌の内容だけでなく、歌の背景や作者の身分なども判定に影響を与えたとされます。歌合の勝負で敗れた衝撃で病気になり死んでしまった歌人の説話も残っています。当時は、歌人たちの派閥抗争も顕著となった時期であり、歌合の勝敗をめぐる論争の記録も残されています。
歌合は、和歌文化の発展に大きく貢献し、日本の古典文学において重要な位置を占めています。
頼政、俊恵とは ?
源頼政(みなもとのよりまさ)。以仁王(もちひとおう)の呼びかけに応じて平家追討のため挙兵、宇治で敗死した武将として著名、歌人としても活躍した(こちらを)。
源俊恵(みなもとのしゅんえ)。勅撰集『金葉集』の選者源俊頼(みなもとのとしより)の子。鴨長明の和歌の師。
関路の落葉(『無名抄』)を現代語で
建春門院(けんしゅんもんいん)の殿上(てんじょう)の歌合で、「関路の落葉」という題として、頼政卿の歌に、都にはまだ青葉にてみしかども紅葉散り敷く白河の関
(京の都を立つ時にはまだ青葉で見たけれど、長い旅の末に到着すると、紅葉が散り敷く白河の関だよ。)
とお詠みになりましたが、そのときは、この題の歌を多数よんで、当日までこの歌を出すか思い悩んで、俊恵を呼んでお見せになったところ、俊恵は「この歌は、あの能因の『(都をば霞とともに立ちしかど)秋風ぞ吹く白河の関』という歌に似ています。けれども、この歌は歌合に出して見映えがするはずの歌です。あの歌ほどの出来ではないが、このように素材をうまく取り扱うこともできるのだろうと、巧みによんだと見える。似ているといって非難しなければならない歌のさまではない。」と判断したので、頼政は牛車(ぎっしゃ)を近づけてお乗りになった時、「あなたの判断を信じて、それでは、この歌を出すのがよいであろう。歌合で負けた場合の責任を負っていただこう。」と言いかけて、お出になった。
とお詠みになりましたが、そのときは、この題の歌を多数よんで、当日までこの歌を出すか思い悩んで、俊恵を呼んでお見せになったところ、俊恵は「この歌は、あの能因の『(都をば霞とともに立ちしかど)秋風ぞ吹く白河の関』という歌に似ています。けれども、この歌は歌合に出して見映えがするはずの歌です。あの歌ほどの出来ではないが、このように素材をうまく取り扱うこともできるのだろうと、巧みによんだと見える。似ているといって非難しなければならない歌のさまではない。」と判断したので、頼政は牛車(ぎっしゃ)を近づけてお乗りになった時、「あなたの判断を信じて、それでは、この歌を出すのがよいであろう。歌合で負けた場合の責任を負っていただこう。」と言いかけて、お出になった。
この歌合で、思ったとおり見映えがして勝ったので、頼政は帰って、すぐにお礼を言って送った。その頼政への俊恵の返事に、「見どころがあるからこう申し上げたが、勝負の結果を聞かなかった間は、わけもなくどきどきしましたが、勝ったとうかがってたいそう手柄を立てたと、心の内では思われました。」と、俊恵は語っていました。
能因歌へのオマージュ
奥羽の三関
「関路の落葉」という歌題から、源頼政は、奥羽の三関の白河・勿来(なこそ)・念珠(ねず)の三つの関所から白河の関という歌枕を選び、「落葉」を「白河」との対比で「紅葉」と着想したようです。
能因の名歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(『後拾遺集』)
都を旅立ってずいぶん日数が経ったという感慨を詠んでいる。当時、都から白河の関のある東北地方への旅は日数がかかるだけではなく、さまざまな困難もあった。この歌ではそれらの旅の苦しさは言わず、日数に焦点をあてています。「秋風ぞ吹く」と季節の変化をさわやかに表現。霞が「立つ」と旅に「発つ」の掛詞を使っています。
頼政の歌「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関」
都から白河の関までの距離の遠さを季節の推移によってとらえ、それを表現するために季節の代表的な景物を用いているのは、両歌とも共通しています。
能因の歌が「霞」「秋風」と天象を用いているのに対して、頼政の歌は「青葉」「紅葉」と植物を用いています。また、頼政の歌は、「青葉」「紅葉」「白河」と色彩が対比され鮮やかに表現されています。
この歌について、十訓抄(じっきんしょう)や古今著聞集(ここんちょもんじゅう)に書かれた説話には、この歌が陸奥ではなく都で詠んだのだったが、風流に欠けるので自宅に引きこもって姿を隠しつつ日焼けし、陸奥に下向したのだと噂が立った頃にひょっこり現れてこの歌を詠んだ、との記述があります。なお、勅撰和歌集である後拾遺集に記されている題から、本当に陸奥に行ったのは間違いないと思われます。 この歌合で頼政の歌は「勝」と判定されたが、その根拠を記す判詞(はんじ)は次のように評定しています。『かの能因法師の「秋風ぞ吹く白河の関」と言っているのをふまえて、このように詠出したことは、めずらしく見えるが、ただ、上の句の「霞とともにたちしかど」と詠んでいるのには及び難く存じますが、紅葉散り敷いていたという日数のほども心細く思いやられます上に、人々も悪くはない歌だと言っている』としています。
オマージュとは、『実用日本語表現辞典』によると次のように解説されています。
俊恵の判定
「関路の落葉」という歌題に対して、頼政は能因法師の名歌「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の都から白河の関への長旅という趣向をそのまま借りて、「青葉」「紅葉」「白河」と色彩の対比という着想で換骨奪胎して、「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関」と詠んだ。俊恵は、頼政の歌は能因の歌に似ているからいけないというのではなく、歌合に出して見栄えがするはずの歌だ。」と判定した。頼政は「貴殿の判断を信じてこの歌にします。もし負けたら責任とって下さいね!😜」と冗談を言いながら、歌合に出かけていった。実は、俊恵は、頼政の「都には」の歌が能因の「秋風ぞ吹く白河の関」に似ているとして負になるのではとはらはらしていたが、歌合の本番で勝と判定されたことで面目をほどこしたよと語った。
【白河市観光パンフレット動画】白河関跡
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