二月つごもりころに
(枕草子)
~清少納言の能力を試してみたら… !
雪景色になった京都市内
(京都市左京区・上京区)
Kyoto city covered in snow
「二月つごもりころに」(枕草子)を現代語で
「二月つごもりころに」原文+現代語訳はこちらへ
「ごめんください。」
とあいさつの言葉を述べるので、御簾(みす)のところへ寄ったところ、
「これは、藤原公任(きんとう)の宰相様のお手紙です。」
と言って差し出すのを見ると、懐紙に、
「少し春あるここちする」
と書いてあるのは、なるほど今日の空もようとぴったり合致しているので、この上(かみ)の句はどうつけたらよかろうかと、考えあぐねてしまった。
清少納言、付け句を返す
「どんな方が殿上(てんじょう)にはいらっしゃるの?」
と尋ねると、
「あのお方や、このお方です。」
と名前をあげる。どのお方もみなこちらがはずかしく思うほどの立派な方々だが、中でも宰相公任様へのご返事を、どうしていい加減に言ってやれようかと、胸の内ではつらいので、中宮さまにお目にかけようと思うけれども、ちょうど帝がおいでになって、お二人はお休みになっている。主殿寮の役人は、早く、早くとせき立てる。なるほど、下手なうえに、返事が遅いとなったら、全く取りえがないから、ままよ、どうにでもなれと覚悟を決めて、
「空寒み花にまがへて降る雪に」
と、寒さにふるえふるえしながら返事を書いて使いの者に渡して、相手方が今ごろ私の返事をどう評価しているだろうと思って、身も消える思いだ。
清少納言の付け句への評価
この評価を知りたいと思う一方、けなされでもしていたら、そんな言葉は聞きたくないと思っていると、
「源俊賢(としたか)の宰相様などが、『やはり(清少納言はたいした方だから)、帝に申し上げて掌侍(ないしのすけ)に任官させよう。』と評定なさった。」
と(結論)だけを、左兵衛督(さひょうえのすけ)で、当時近衛中将(このえのちゅうじょう)でいらっしゃった方〔=藤原実成〕が、お話ししてくださった。
かなり上位の貴族たちが顔を合わせている席。そこで才媛(さいえん)で評判高い清少納言のことが話題になる。そしてその才能がどの程度のものか試そうということになる。相手が女性だという意識ももちろんある。最上級の高官(この時は参議)であると同時に、『和漢朗詠集』(こちら)の選者であり歌壇の重鎮でもある藤原公任(きんとう)が短連歌(こちらを)の前句(七七)を贈る…黒戸に控えている 清少納言はそれにどんな付け句(五七五)を返してくるか…。
公任たちはめぼしい歌人に、ときどきこんな戯れをしていたようです。公任など当時の才人たちから試されていると、もちろん彼女自身も察しているのです。清少納言自身だけではなく、それ以上に定子の後宮の評価・評判に関わることになるのです。ですから、中宮定子にどうしたものかと相談したかった。何かにつけて頼りあう二人の親密さがうかがえます。しかし、今は帝がおみえになり夜御殿にいらして相談できない。清少納言はどのよう返せばよいのか思い悩み、せっぱつまった気持だったとしている。そんななか、作った付け句、使者の主殿寮(とのもづかさ)の役人に「わななくわななく書きてとらせ(=ふるえふるえ書いて渡し)」たとしています。
藤原公任 ………「すこし春ある/心地こそすれ」=(七/七の前句)
↓興味
清少納言 ………「 ?/?/? 」=(五/七/五の付け句)
↓清少納言が使者主殿司に渡した句
॥
「空寒み/花にまがへて/散る雪に」
(五/七/五の付け句)
公任のなぞかけ?
旧暦(こちらを)二月下旬は現代の暦では三月下旬~四月上旬、初春から仲春の季節に当たります。梅の花が満開、鶯が鳴き始める詩情豊かな時季として古典作品では描かれています。ここではそんな時節にそぐわないその日の挨拶とするもの。
二月下旬というのに空は黒く風強く雪がちらつくその日の天候から、白居易(こちらを)の漢詩「南秦雪(なんしんのゆき)」の「少有春(春有ること少なし)」に依って、「少し春ある/ここちこそすれ」として、短連歌(こちらを)の前句(こちらを)としたもの(下の【詳細】の④の傍線部をふまえている)。「南秦雪」では二月でも春の気配は少ないとしていますが、ここでは今日は少しだけ春めいた気持ちがしますねという、なぞかけのようなあいさつの句としている。漢詩という男性の教養に裏付けられた前句であり、しかも「南秦雪」はそれほど知れ渡っている作品ではないが、さて、清少納言はどんな付け句をしてくるか ? 難度がとても高い前句となっているわけです。
清少納言の付け句
清少納言は、「げに今日のけしきにいとよう合ひたる」として、公任の「少し春あるここちこそすれ」が、今日の天候から『白氏文集』の「南秦雪」に依って作られた前句であるとすぐに気づいたようです。すなわち、公任が、今日の天候から「南秦雪」の一句を想起し、「少有春(春有ること少なし)」を換骨奪胎して「少し春ある」として、清少納言に付け句をうながすものと理解したわけです。そして、この本(もと=上の句、ここでは付け句となる)はどう付ければよいものかと考えあぐねたと書いています。中宮に相談できずに、ままよ、どうにでもなれという気持ちで詠んだのだとしています。
清少納言は、公任の句がふまえた白居易の詩中の「二月山寒少有春」と対句になっている直前の「三時雲冷多飛雪」を使って、「空寒み花にまがへてちる雪に」と詠んだわけです(下の【詳細】の③の傍線部をふまえている)。雪が降るが、それが桜の花の散るときのように見えての意となります。公任が、その日の天候について、白居易『白氏文集』の詩句に依って詠みかけているのを理解していると、それとなくにおわせていることとなります。
女性ではあるけれど深い漢籍の素養にもとづき、かつ、風に舞う雪を散る桜に見立てる和歌の修辞によって詠まれた付け句、才ほとばしる挨拶返しと言わざるをえない句となっています。
公任たちの評価は
清少納言の付け句が公任たちにどう評価されたかは直接書かれていない。俊賢(としかた)などが「やはり、帝に申し上げて(清少納言を)内侍に任官させようと評定した」と記している。
内侍は内侍司(ないしのつかさ)のこと。内侍司は天皇に近侍し、文書の作成や儀式の準備などを司(つかさど)り、 天皇の 秘書役とも言うべき重要な役職で、学問・礼法に通じた有能な 女性 が任命されました。女房達にとって名誉となる官でした。
作者を内侍にするよう天皇に推薦しようとは、すなわち、公任たちは清少納言の付け句の秀逸さを称賛したということになります。清少納言は得意な気持ちでこの記事を書いているのです。
藤原公任と清少納言の短連歌 もっと、深くへ!
💕スマホなら横見にすると見やすいデス💕
藤原公任
風強く・暗く曇り・雪が降る(二月下旬らしくない今日の天候)
↓ 想起
南秦雪(白居易『白氏文集』の漢詩)
↓ 着目
「二月山寒少有春」=「二月 山寒くして春有ること少なし」
↓ 換骨奪胎
「少し春ある/心地こそすれ」=(七/七の前句)😉😉😉
清少納言
〔公任の書き付け〕「少し春ある/心地こそすれ」=(七/七の前句)
〔今日の天候〕風強く・暗く曇り・雪が降る(二月下旬らしくない今日の天候)
↓ 想起=漢籍の素養
南秦雪(白居易『白氏文集』)
「二月山寒少有春」=「二月 山寒くして春有ること少なし」
↓ 着目・「二月山寒少有春」と対句になっている前の句
「三時雲冷多飛雪」=「三時 雲冷やかにして多く雪を飛ばし」
↓ 「風に舞う雪」を桜の花が散ると見立てる和歌の修辞
「空寒み/花にまがへて/散る雪に」(五/七/五の付け句)😅😅😅
清少納言の付け句+藤原公任の前句で
空寒み 花にまがへて 散る雪に 少し春ある ここちこそすれ
という短連歌が完成することになります。知的で風雅なあいさつの短歌になりますね😍😍😍
【詳細】
=原詩=
南秦雪 白居易
①往歳曾爲西邑吏
②慣從駱口到南秦
③三時雲冷多飛雪
④二月山寒少有春
⑤我思舊事猶惆悵
⑥君作初行定苦辛
⑦仍賴愁猿寒不叫
⑧若聞猿叫更愁人
①往歳曾爲西邑吏
②慣從駱口到南秦
③三時雲冷多飛雪
④二月山寒少有春
⑤我思舊事猶惆悵
⑥君作初行定苦辛
⑦仍賴愁猿寒不叫
⑧若聞猿叫更愁人
=書き下し=
南秦の雪 白居易
①往歳曽(かつ)て西邑(せいゆう)の吏(り)と為(な)り
②駱口(らくこう)より南秦に到るに慣(な)る
③三時 雲冷やかにして多く雪を飛ばし
④二月 山寒くして春有ること少なし
⑤我は旧事を思ひて 猶(な)ほ惆悵(しゅうちょう)す
⑥君は初行(しょこう)を作(な)して 定めて苦辛(くしん)せん
⑦仍(な)ほ頼(さい)はひに 愁猿(しゅうえん)寒うして叫ばず
⑧若(も)し猿の叫ぶを聞かば 更に人を愁(う)れへしめん
=現代語訳=
南秦の雪 白居易
①往年、私は西邑の官吏となり、
②駱口から南秦への道を通い慣れたものだ。
③春夏秋の三時も雲は冷え冷えとして、雪を舞わせることが多く、
④二月になっても山は寒々として、春らしい季節は短い。
⑤私はその頃のことを思い出して、さらに嘆き悲しむ。
⑥あなたは初めての旅で、さぞかし苦労していることだろう。
⑦しかし幸いなことに、寒すぎて猿が悲しげに叫ぶことはない。
⑧もし猿が叫ぶのを聞けば、ひとしお君を悲しませるだろう。
②駱口から南秦への道を通い慣れたものだ。
③春夏秋の三時も雲は冷え冷えとして、雪を舞わせることが多く、
④二月になっても山は寒々として、春らしい季節は短い。
⑤私はその頃のことを思い出して、さらに嘆き悲しむ。
⑥あなたは初めての旅で、さぞかし苦労していることだろう。
⑦しかし幸いなことに、寒すぎて猿が悲しげに叫ぶことはない。
⑧もし猿が叫ぶのを聞けば、ひとしお君を悲しませるだろう。
国風文化
平安時代は、今から1200年前(794年)に始まり武士政権が始まるまで400年間続きました。遣唐使が盛んでしたが896年にそれは停止され、その結果、国風文化(こちらを)が花開き展開することになりました。 日本最古の物語である『竹取物語』や、日本人の美意識を方向づけたといえる、歴史上初めての勅撰和歌集『古今和歌集』が編まれた時期でもあります。貴族文化や宮中文化が栄え、服装・建築様式も進化しました。日本の文化や歴史に多大な影響を与えた時代であり、その長い年月にはさまざまな出来事が詰まっています。
『枕草子』はそんな平安時代の中期に初めて書かれた、現代でいう随筆作品です。ここでは、唐の文化を消化吸収し、短連歌の前句と付句として利用するというように、進んだ文化を移入し、より高度で独自なものに進化させる、わが国の文化のありかたがよく理解できる章段です。
「枕草子」とは
日本語は文字を持たない言葉でしたが、平安時代の初期(1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情や情景の文章表現ができるようになっていった(★)のです。このようにして、かな文字で書かれる物語という新しい文学に発展していきました。文学史的には、こうして、架空の人物や事件を題材にした〈作り物語〉(「竹取物語」など)と、当時の貴族社会で語られていた歌の詠まれた背景についての話を文字化した〈歌物語〉(「伊勢物語」など)の二つが成立したとされています。
(★)万葉仮名など、漢字で日本語音を表していたことはあります。
さらに、見聞きしたことや、自然・人事についての感想・考え・評価などを自在に記す〈随筆〉として、千年ほど前清少納言によって『枕草子』が書かれました。中宮定子に仕えた宮中生活の体験や、感性光る「ものづくし」を自在に著わした「をかし」の文学と言われています。『枕草子』も、日本人独自の感受性、ものの見方、ふるまいや作法の原型の一つとなっているといえます。
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