項王の最期
(史記)
~天の我を滅ぼすに、
我何ぞ渡るを為さん !
「項王の最期~天の我を亡ぼすにして(史記)」原文/書き下し/現代語訳はこちらへ
鴻門(こうもん)の会(記事はこちらへ)の四年後、四面楚歌(記事はこちらへ)で知られる垓下(がいか)の城で窮地に陥った項羽(こうう)は、精鋭八百四騎を従えて包囲を突破しました。しかし淮河(わいが)を渡りおえた者はわずか百四騎、さらに東城まで来たときには、後に続く者は二十八騎だけとなったのです。追撃する漢軍は数千人。死を決意した項羽は、逃れる途中で述べた「天の我を亡ぼすにして、戦いの罪に非ず(=天が私を滅ばすのであって、戦い方に非があるのではない)。」という言葉を証明するために、この敵をさんざんに蹴(け)散らして血路(けつろ)を開き、ついに長江のほとりまで逃げのびました。向こう岸は、項羽の本拠地(江東)です。
渡し場の宿駅の長(亭長)が、舟を準備して項羽を逃がそうとします。しかし、項羽は今死ぬのは天命であり、その死を先に延ばすのは無意味であり、さらにまた、自分がこうして生きて帰っても、江東の父兄に合わせる顔がないとして、舟に乗ることを辞退します。
馬を降りて接近戦を挑み、項羽一人で数百人を殺害しました。そこで、敵の中に呂馬童(りょばどう)という昔なじみを見て、「そなたにこの首をくれてやろう。」と言って、自刎(じふん)して果てたのでした。
『史記』の項羽本記(こううほんぎ)に書かれ、わが国でも人気のある場面です。
項羽と劉邦~戦国の世の英雄、二つの典型
『史記』の作者司馬遷(しばせん)は、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう 沛公)を戦国の時代の対照的な英雄の典型として描いているようです。
項羽(こうう)は実戦の指揮官としても、一闘士としてもずば抜けて優秀でした。彭城(ほうじょう)の戦いでたちまち五十六万の漢軍を撃破したのは指揮官としての卓抜さを示すものです。また、滎陽の戦いで楼煩(ろうはん こちらを)を恐れさせたのはその勇猛さを示す例の一つと言うことができます。
ただ、あくまで天下を力でねじ伏せようとし、外交的手腕や駆け引きに決定的に欠けていたようです。柔軟な戦術をとり、項羽とその卓越した参謀范増(はんぞう)を離間させる術策(じゅつさく)まで弄(ろう)した劉邦(りゅうほう 沛公=漢王)と比較すれば、戦いぶりそのものは痛快な勇者ですが、天下を取る資格には欠けていたと、司馬遷はしているようです。つまり、項羽自身は「天の我を亡ぼすにして、戦いの罪に非ざるなり」ととらえていますが、司馬遷は項羽敗北の根本を項羽自身の内に見ているのです。
一方、劉邦(りゅうほう 沛公=漢王)は彭城(ほうじょう)の一戦に敗れて逃げる車の中で、せっかく探し出し拾い上げた自分の子を、車の速度を速めるため突き落とし、部下の夏侯嬰(かこうえい)に諌(いさ)められます。また、公武山布陣の折は、お前の父親を釜ゆでにするぞと脅迫する項羽に対して、劉邦はなんとその父親を煮たスープ(羹)を自分にも分けてくれと言い放ちます。項伯(こうはく)は、天下のためことをなす者は、家族のことなど顧みないものだと言っています。劉邦(漢王)に時折みられるこの冷酷さは、若いころから自分の命を長らえることさえ運の強さに任せざるを得なかった苛酷な体験から次第に形成されてきたもののようです。そしてこれが『史記』で語られている劉邦(漢王)の性格の底辺であり、経験の奥行きのようです。このように冷酷さや狡猾(こうかつ)さや計算高さなどを含む底の深い性格を持っているからこそ、社会の動静を見るにあたっても、項羽に勝(まさ)る洞察力を持つことができたのだと作者は語っているようです。作者司馬遷としては、自分が仕えている漢王朝の初代皇帝の悪の側面を許されるギリギリのところで書いているとも解釈できます。
劉邦の父親を釜ゆでにして羹(あつもの)にするぞと脅迫したり、そのスープを飲ませてくれとする場面、文化の背景が異なる私たちには恐怖をおぼえる以前に何かユーモラスにもみえてしまいます。釜茹での刑という過酷な刑罰や、さらに、犬食だけではなく人食文化が身近であったから、この場面がリアリティのあるものであったとも言えるのでしょう。
戦国の世の英雄の最期として、我が国では『木曾の最期』(平家物語)がよく知られています(記事はこちらから)が、比較してみるととてもおもしろいです。
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【動画〕項羽と劉邦 King's War
第79話 覇王別姫
音声1分35秒後から
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木曾の最期(平家物語)~日本人がそうふるまうのはなぜ ?では日本の武将の最期が語られています。こちらです。
『史記』とは
前漢の司馬遷(しばせん)によって書かれた史伝。今から2100年ほど前の紀元前90ころ成立。
宮廷に保存されていた資料や古くから伝わる文献や司馬遷自身が各地の古老から聞き取った話などをもとにして書かれたとされています。
帝王の記録である本紀(ほんぎ)、著名な個人の記録である列伝(れつでん)などから構成される紀伝体(きでんたい)と呼ばれる形式で書かれているもので、この紀伝体は司馬遷が創始した歴史記述の形式です。以降各王朝の正史の形式となりました。
『史記』の最大の特色は、単なる事実の集積ではなく、個人の生き方を凝視した人間中心の歴史書であるという点にあります。歴代の治乱興亡(ちらんこうぼう)の厳しい現実の中を生きた多くの個性的な人々の躍動感あふれる描写と場面転換のおもしろさなどから、歴史書という性格を越えて、文学作品としても人気を保ってきた史書でもあります。
今から2000年以上前、これほどの史書が書かれていたことに驚かされます。その頃はわが国は弥生時代であり、また、万葉仮名で書かれた我が国初めての歌集『万葉集』の編纂が完成する約850年も前に書かれたことになります。
木曾の最期(平家物語)~日本人がそうふるまうのはなぜ ?は日本の武将の最期が語られています。こちらです。
【参考】
司馬遷とは
『史記』を著述、もしくは編者したとされる歴史家。
中国前漢時代の人物。後世に残した影響は大きく、彼の残した史記は、歴史的だけでなく文学的にも重要視されている。
20代のころには中国各地を旅行している。その後漢王朝に仕え、同じく仕官していた父の跡を継ぎこの書物の編纂を始めるものの、単独行動の末捕虜となった将軍李陵(りりょう)に対し弁護したため牢獄に繋がれ宮刑に処せられる。その後大赦(たいしゃ)により牢獄から出て6年、本書は完成する。
また、歴史の考察や人物の評価においてはかなり合理的かつ辛辣(しんらつ)であり、三皇五帝の伝説に対して、現実的にはあり得ないだろうと前置きしつつも、伝説の分布している地域に共通点があると言う理由で「歴史」としてまとめたり、天の意思や超常的な存在による運命の変化などは否定し、本人の運命はあくまでもこれまでの積み重ねの帰結であると言う立場を貫いている。(『ピクシブ百科事典』より)
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