「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
中華の正史の形式紀伝体に倣って書かれています。二人の二百歳近くの老人とその妻、それに若侍という登場人物との、雲林院(うりんいん、うんりんいん。こちらを)の菩提講(ぼだいこう。こちらを)での会話を筆者が筆録しているというスタイルで書かれています。これも独創的な記述の仕方で、登場人物の言葉がその性格や場面に応じており、簡潔で躍動的、男性的な筆致と相まって、戯曲的効果を高めているものです。
「大鏡」は、約百九十年(語り手の世継の年齢とほぼ一致)の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、「枕草子」が正の世界を描いたのに対し、「大鏡」は負の世界を描いたともいえます。
藤原道長とは
後の世の織田信長・豊臣秀吉は天下人(てんかびと)と呼ばれたが、藤原道長は平安時代の天下人と呼んでよいような人物(一の人とよばれた)。兼家(室の一人に『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母〈こちらを〉がいる)の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」と詠った。一条天皇の后となった娘の彰子に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部〈こちらを〉である。
藤原公任とは
『デジタル版 日本人名辞典+Plus』に次のようにある。
966-1041 平安時代中期の公卿(くぎょう),歌人。康保(こうほう)3年生まれ。藤原頼忠(よりただ)の長男。母は厳子女王。権(ごんの)大納言,正二位にいたる。一条朝の四納言のひとり。漢詩,管弦にもすぐれ,三船の才をうたわれた。
「三十六人撰」「和漢朗詠集」を編集,歌論書「新撰髄脳」,有職(ゆうそく)書「北山(ほくざん)抄」などの著作がある。長久2年1月1日死去。76歳。通称は四条大納言。家集に「公任集」。
当時、公任は最高権力者関白頼忠の嫡男(チャクナン/長男。あととり)である上に、貴族社会で最も重んじられた和歌・漢詩・楽器演奏に抜きんでた多芸多才ぶりは世間で評判高かった。それに比して、右大臣兼家の子息たちの、道隆・道兼・道長は父親の目からはかすんで見える存在に見え、「公任殿がうらやましい。我が子たちがその影でさえ踏めそうにないのが残念だ。」と嘆いたとされている。
対照
兄二人は、父君はさぞ残念に思っていらしゃる事であろうよと恥ずかしがっていたが、末息の道長は、「影など踏まないが、顔なら踏んずけてやる。」と反発した。
公任と兼家子息たちの対照、そして、兄二人と道長の対照させ、若き日の道長の気概の大きさを語る物語にしている。
時は経過し、道長が権勢を誇る今、道長の子息教通(のりみち)は公任の娘婿(むすめむこ)であるが、公任はその娘婿(むすめむこ)の前でさえかしこまっていなければならないほど、道長と公任との力関係は逆転しまったと語られる。現在の両者の立場がここでも対照的に描かれる。
公任は教通の北の方(正妻)となった娘に夢を託したが、その娘もはかなく死去してしまう。公任は「何もかも嘆かないですむことはない」と、官を辞し、出家してしまう。この本文の結末部は哀切でさえあります。ただ、「新撰髄脳」などの著作が、後世、詠歌や歌論へ影響を与え、現在の文学研究の対象となって貢献していること、知っていていいと思います。
問1① 四条大納言(藤原公任)が何事にも優れ、すばらしくていらっしゃること
(直前の「何事もすぐれ、めでたくおはします」をうける。)
② 推量・ん・連体形(「か」の結びとなっている。)
③ どうしてあのようでいらっしゃるのだろうか
問2 確かに、(わが子が公任殿に及びも付かないのを)無念なことだとお思いになっているのだろうか
問3① かげ
② ぬ (「や」の結びとなり、連体形。「ざる」では間違い。)
③ 影など踏まないが、顔なら踏んづけてやるさ(「で」は打消接続の接続助詞、~ナイデ。「やは」は反語。)
問4(1)栄華物語(2)今鏡 水鏡 増鏡
(3)新撰髄脳
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