道長と甥の隆家
(大鏡)
~天下の乱暴者隆家が気色ばんだ。道長は ?
道長と乱暴者の甥隆家(大鏡)~天下の乱暴者隆家が気色ばんだ、その時、道長は ?
「内大臣隆家」(大鏡)を現代語で
道長と隆家(大鏡 内大臣隆家)原文+現代語訳はこちらへ
ある日、入道殿(にゅうどうどの 藤原道長)の土御門(つちみかど)邸でご遊宴が行われました。その際、権(ごん)中納言の藤原隆家(たかいえ)公が不在であることについて、「こういう催しには、隆家公がいないのは、やはりもの足りないなあ」
と入道殿がおっしゃいました。
しかし、その後、杯(さかずき)が重なり、人々は酔いが回って乱れ、着物の紐(ひも)を解いてくつろいでいました。すると、隆家公が参られました。一座の人々は居ずまいを正して座り直し、入道殿が隆家公に、
「早く着物の紐をお解きください。せっかくの興(きょう)がさめてしまいましょうから」とおっしゃいました。隆家公はためらっていらっしゃるのを、公信(きみのぶ⇒こちら)卿が 「私が解いてさしあげましょう」
と言って近寄りなさると、隆家公はごきげんがけわしくなり、
「この隆家は不運なことがあるとはいえ、そなたたちにこんなふうになれなれしくあつかわれるような身ではない !」
と荒々しくおっしゃいました。一座の人々はどうなってしまうことかとお顔色が変わりましたが、特に民部卿の源俊賢(としかた⇒こちら)公は動転して、人々のお顔をあれこれ見回しながら、 「ひと騒動起こるにちがいない。えらいことになったなあ」とお思いになっていました。
入道殿はお笑いになって、
「今日は、そのような冗談ごとはなしにしていただきましょう。隆家公のお紐はこの道長が解いてさしあげましょう」
とおっしゃいました。そして、おそばへお寄りになり、ぱらぱらと紐をお解き申し上げなさると、隆家公は「このようなあつかいこそ、当然のことですよ」とおっしゃり、ごきげんもお直りになり、前にそのままにして置かれてあった杯(さかずき)をお取りになって杯を重ねられ、ふだんよりも羽目を外してお遊びになったありさまなど、実に好ましい態度でいらっしゃいました。入道殿も隆家公を非常にご歓待申し上げなさったことです。(内大臣隆家)
道長と隆家(大鏡 内大臣隆家)原文+現代語訳は
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道長と隆家とは
藤原道長
織田信長・豊臣秀吉は天下人(てんかびと)と呼ばれますが、藤原道長は平安時代の天下人と呼んでよいような人物で、当時「一の人」と呼ばれました。藤原兼家(かねいえ 妾妻の一人に『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母がいる)の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(この世は私のものと思える。なぜなら、私の力は満月のようにまったく欠けたところがないのだから)」と詠いました。一条天皇の后となった娘の彰子に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部です(⇒こちらを)。
藤原隆家(たかいえ)
父摂政道隆(みちたか)の後ろ盾(だて)によって、とんとん拍子で出世しました。若くして、兄の伊周(これちか)は内大臣、隆家は権(ごん)中納言(こちらを)に任じられました。一条天皇の中宮の定子の弟。その父道隆はまもなく没しました。その後は道隆の弟の道兼(みちかね)が関白となるがこれもまもなく没しました。執政の座は内覧・右大臣となった藤原道長に移りました。
この状況の中で、隆家は道長の家臣を殺害したり、兄伊周の女性関係に関連して花山法皇(かざんほうおう こちらを)の一行を襲い、弓で法皇の袖を射抜くなどの事件を起こします。これらのことを道長に利用され、隆家は出雲権守(いずものごんのかみ)に、同母兄の内大臣・藤原伊周は大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されました(=長徳の変)。まもなく赦免(しゃめん)され帰京しました。
隆家は後年、眼病をわずらい、目の治療ができる唐人がいるというので、自ら望んで太宰権帥として赴任。そこで善政を行い、
女真族と考えられている異民族の刀伊(トイ)が対馬・壱岐、続いて、博多を襲撃したが、
隆家は総指揮官として大宰大監(だざいのだいげん)大蔵種材(おおくらのたねき⇒
こちら)らを指揮してこれに応戦・撃退する功績を上げました。
隆家は天下の「さがな者」(手に負えない乱暴者)として有名でした。
一条天皇を人非人(にんぴにん)と非難したり、権力者の叔父
道長の意に背くことをするようなこともしていました。しかし、その「こころたましひ」(気概)は政敵の
道長も一目置く存在であり、先に
伊周・
隆家兄弟が島流しに処せられたこと(長徳の変)は、世間の噂のように
道長が関与したことではないと、賀茂詣(かももうで⇒
こちら)のついでにわざわざ
隆家を招いて同車させ、その弁明に努めるというようなこともありました。
前項の「道長と隆家(大鏡)現代語訳で」は、その話題に続くものです。
道長と隆家はどう描かれているか
隆家は、父親は関白まで上りつめた
道隆であり、本来は、
隆家の藤原北家(ほっけ)本流、摂関の嫡家(ちゃっけ⇨
こちら)であるという自負がある。ここでは、
公信卿程度の者に着衣の世話をしてもらうほど落ちぶれてはいないと、機嫌を損ねているわけです。
道長は、賀茂詣(かももうで⇒
こちら)での折にわざわざ
隆家を自分の車に同乗させ、先年の
伊周・隆家左遷の件(長徳の変のこと)は、世間の噂のように自分が関与したことではないと弁解したといいます。
道長の
伊周に対する態度に比べて、
隆家への態度は対照的に丁重です。そこには
隆家·伊周兄弟の性格・人柄の世間での評価と大鏡の作者のとらえ方を浮き彫りにしようとする意図があるようです。
ここでは、道長は、小事にこだわらない柔軟さと、豊かな包含力とを兼ね備えた性格の持ち主として描かれ、隆家は、自尊心が強く、逆境にあっても誇りを失わない人物として描かれているようです。
すぐれた器量と豪胆な性格の持ち主ながら、悲運であった隆家を、作者は、生一本(きいっぽん)のかたくなさをけなげさとして同情的に書いているように見えます。
「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
中華の正史の形式紀伝体に倣って書かれています。二人の二百歳近くの老人とその妻、それに若侍という登場人物との、雲林院(うりんいん、うんりんいん。こちらを)の菩提講(ぼだいこう。こちらを)での会話を筆者が筆録しているというスタイルで書かれています。これも独創的な記述の仕方で、登場人物の言葉がその性格や場面に応じており、簡潔で躍動的、男性的な筆致と相まって、戯曲的効果を高めているものです。
「大鏡」は、約百九十年(語り手の世継の年齢とほぼ一致)の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、「枕草子」が正の世界を描いたのに対し、「大鏡」は負の世界を描いたともいえます。
【参考動画】
暴れん坊公家 平安朝を救う
藤原隆家 刀伊の入寇事件
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