安部公房
『棒』
放っておかれる人たち !
【名作短編小説朗読】安部公房『棒』
阿部公房『棒』あらすじ
ある日曜日、駅前のデパートの屋上で、子供たちの守りをしていた私は突然墜落し、一本の棒に変わりました。それを見つけた先生と二人の学生が、研究材料として分析し、その特性について議論しました。学生たちは棒の特性について議論し、それが単純な道具であるか、あるいは特別な意味を持つものであるかを考えます。先生はこの棒が「棒であった」と総括し、その平凡さを強調します。学生たちは棒の単純な誠実さを称賛し、先生はそれを珍しくないものとして捉えます。先生は学生にこの棒をどう罰するべきかを質問しました。学生の一人は、こんな棒まで加罰する必要があるのかと疑問を呈し、もう一人の学生は、死者を裁くことが我々の存在理由であると答えました。先生は、裁かないことが最も適切な罰であると結論付けました。学生たちは棒が何を思ったのか尋ねましたが、先生は微笑んで学生を促し立ち去りました。雑踏の中で、父親を呼ぶ声が聞こえ、その数は数えきれないほどでした。
リアルから超現実へ転換する
「私」が、六月のある雨上がりの日曜日、駅前のデパートの屋上で、二人の子供を子守りをしながら、街を見下ろしている。「私」の気持ちは、うっとりと、少々後ろめたい楽しみを感じながらぼんやりしている。ただ、湿っぽさのせいか、子供たちに対して妙にいらだたしく腹を立てていた。
事件は、上の子の「父ちゃん」という声から逃げるようにデパートの屋上から上半身を乗り出した時に起った。「私」はふわりと体が宙に浮き、墜落し始め、一メートルほどの真っ直ぐな太からず細からずの一本の棒になって、道に突き刺さった。
先生と学生
そこへ三人の登場人物が現れる。「先生」と二人の「学生」。今ではいかにも古めかしい、この小説が書かれた時代の先生と学生の像。
「先生」は穏やかそうで、つけ髭(ひげ)をしていて、威厳を保ちたそうで、「学生」は二人とも学生服を着て度の強い眼鏡をかけ、いかにもまじめを絵にかいたような学生として登場。
いわば典型的な「先生」「学生」としてデフォルメして描かれているようです。「先生」の付け髭は、世の「先生」と呼ばれている人の見せかけの権威主義への揶揄(ヤユ=からかい)になっているのでしょうか。また、「学生」二人は、「背丈から、顔つきから、帽子のかぶり方まで、まるで双子(ふたご)のように似通っていた」とされ、後の「同じことを違った表現で言っている」につながることとなるのでしょう。つまり、同じ事実も見方によって正反対の結論を導くことになるという寓意(こちらを)となっていると読んでよさそうにみえます。
棒とは何 ?
〈棒〉という言葉は、一般的には次のような使われ方をします。
・棒に振る…苦労や努力を無駄にする。
・片棒を担ぐ…悪事に加担する。
・犬も歩けば棒に当たる…何か始めようとすると災難に遭う。
このように肯定的な寓意としては使われることが少ないようです。ここではデパートの屋上から落ちてきた棒の特徴が次のように書かれています。
・手垢がしみ込んでいます
・すり減っています
・人に使われていた
・乱暴な扱いを受けていたようだ
『棒』で、「私」が「棒」になるという設定は、実存としての「私」の本質を視覚的に鮮明にするものではないでしょうか。端的に言うと、《棒》とは、低賃金で、長時間、しかも、権利も無視されてこき使われ、未来も見通せない人々の暗喩なのでしょうか。「棒」という小説、つまり、左翼知識人の考える資本主義社会の労働者・無産階級の現実と宿命の寓話なのでしょうか。
ここで、挙げられている「棒」の特徴が暗喩していることは? 決まった時間に満員電車! に乗り、同じような服装! で工場のラインで同じ作業! をさせられ 組織の歯車の一つとして自主性も主体性も認められず長時間働かされる! 休日には家族サービスをするような誰もが同じような似たり寄ったりの生活!をつづけ、平凡なだけが取り柄!で、文句も言わず便利に酷使され続けているだけの存在 ! ! !
チャップリンの名作「モダンタイムス」ではそれをコメディーとして表現しています。
「棒」は資本主義社会で生きるしかない私たちの宿命であり、その人間疎外に注目されたり改善されたりするはことなく、放っておかれるままだ…ということが寓意されていると解釈してよいのでしょうか?
ただ、この『棒』という小説、一昔前のソ連・中国共産主義のアジ・プロ(こちらを)文学作品だと割り切れない、多面的で複雑な解釈をさせる小説でもあります。
これまで「資本主義」(こちらを)と書いてきましたが、ソ連が崩壊して以来、旧来のマルクス主義的な資本主義批判は無効となったともいわれています。それでも、「労働者たちが使い捨てにされて、非正規労働者が増える。格差はどんどん広がる。過労死をする人もいる。地球環境はボロボロになってしまう。だれか悪い人がいてそうなっているのではなく、資本主義というシステムの本質的な問題」であるというふうに、地球環境もキー・コンセプトに加えて、新たな資本主義批判を展開している、斎藤幸平(こちらを)さんなど若手の学者・論客も登場しています。現在、起業などで成功したりして、ネットで盛んに発信して人気のある優秀な人たちが、自由·競争·自己責任をキーワードにするイデオロギーにもとづづく発言が盛んにおこなわれ、若い人たちに受けているように見受けられます。もっともにも聞えますが、社会は種々の成員から成り立っているのであり、優勝劣敗・弱肉強食に任せておくわけにはいけないという観点、軽視することはできません。種々の成員の福祉という観点からは疑問に感じることが多々あります。対極にある、平等・協働・公正を重視するマルクス主義的観点も知っておきたいものです。
ただ、マルクス主義は有効性を失ったのではないのでしょうが、近隣の国で、マルクス主義をお題目にして、放っておかれている人たちを扇動し、権力奪取のために利用し、結局は、超巨大な利権集団を形成して利益を独占し、それを批判する人々を弾圧したり抹殺したり、さらに、周辺の国々の脅威ともなっている現実を知っておくことも忘れてはならないと思います。これと同じような勢力が、20世紀の前半から世界各地で猛威を振るってきました。
現在の私たちの体制も批判的な視点をなくすと堕落し、人々を苦しめることになるのは言うまでもありません。それも、自分が当事者である自覚を持った建設的な批判が求められると思います。
安部公房とは
新潮社のサイトで次のように紹介されています。
(1924-1993)東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。1962年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。1973年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、1992(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。1993年急性心不全で急逝。
前衛的で実験的、超現実主義と言ってもいい作風。共産党に入党経験があり、マルクス主義が教養の一部となっているようです。ただし、ライナー・マリア・リルケ、マルティン・ハイデッガー、その他実存主義の影響を受けていると言われ、作品群の鑑賞・解釈は一筋縄に行かない面がある。ノーベル文学賞の有力候補者だと言われていました(⇒『実はあの作家も!?ノーベル文学賞を「逃した」日本の文豪たち』こちらを)。
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