小野の雪
(伊勢物語)
~忘れては夢かとぞ思ふ
小野の雪(伊勢物語)を現代語で
昔、水無瀬(みなせ)の離宮(皇族の別邸)にお通いなさった惟喬(これたか)親王が、いつものように狩りにいらっしゃっる供に、右の馬の頭(みぎのうまのかみ=右馬寮の長官)がお仕え申し上げた。何日かたって、親王は御殿にお帰りになった。馬の頭は御殿までお送りして、早く帰ろうと思うが、親王はお酒を下さったり、ご褒美(ほうび)を下さろうとしたりして、馬の頭をお帰しにならなかった。馬の頭は、気が気でなくて、
〈枕にしようとして草を引き結んで旅寝することも、今夜はいたしますまい。せめて秋の夜長のように夜が長いとあてにできるのですが、今は春の短夜でとてもあてにはできませんのに。〉
とよんで、泣く泣く京に帰って来ったのでした。
「伊勢物語」の主人公は業平
「伊勢物語」は現在残っている最古の歌物語です。初期の日本語散文らしさを感じさせる、飾り気がなく初々しく抒情的な文章で書かれています。
初め在原業平の家集を母体として原型ができ、その後増補を重ねて、今日の形になったようです。
在原業平になぞえられる主人公「昔男(むかしおとこ)」の生涯が、一代記風にまとめられています。高貴な出自で、容貌美しく、色好みの評判高く、歌の才能に恵まれた人物の元服から死までのエピソード集です。ただし、業平とは考えられない男性が主人公の段もあります。この話では「右の馬の頭(右馬寮の長官)(の翁)」とされています。
惟喬親王の境遇
父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう。後の清和天皇)を立てた後、第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)にも惟仁親王が成人に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房(よしふさ)の反対を危惧した源信(げんしん=こちらを)の諫言(かんげん=目上の人への忠告)により実現できなかったといわれています。
これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方惟仁親王の母が良房の娘・明子であったことによるものとされる。また、惟仁の成人後に惟喬が皇位を譲ったとしても、双方の子孫による両統迭立の可能性が生じ、奇しくも文徳天皇が立太子する契機となった承和の変の再来を危惧したとも考えられる。
つまり、藤原氏による栄華の独占、母方紀氏(きし)の勢力衰退によって即位がかなわなかったということになります。惟喬親王(これたかのみこ)の父は文徳天皇でやんごとなき方であり、本文で「馬の頭(うまのかみ)のおきな」と書かれている在原業平(ありはらのなりひら)も祖父は平城天皇であり高貴な出自です。
主従関係を越えた心のつながり
同段前半では、惟喬親王とみられる親王(みこ)は、「狩り」から京の本邸まで送った在原業平とみられる右の馬の頭(かみ)をなかなか帰してくださらず、「大御酒(おおみき)たまひ、禄(ろく)たまはむ」として、少しでもそばにいさせようとなさいます。親王(みこ)の馬の頭(かみ)に対する愛着の深さが語られています(こちらを)。
後半で、親王(みこ)は思いがけなく出家なさってしまったことが語られます。
藤原氏の威力によって在俗の身でいられなかったことがほのめかされています。時は正月、都では優雅な儀式や行事に華やいだ気分があふれています。親王(みこ)は第一皇子であり、本来ならばそのはなやぎの中心にいらっしゃるはずの方です。それが、こんな山里の深い雪の中に孤独な境遇で暮らしていらっしゃるのです。
変転極まりない人生の悲哀や、藤原氏に栄華を独占される世の矛盾への慨嘆(がいたん)が、「忘れては夢かとぞ思ふ」歌にこめられている。
親王(みこ)は馬の頭(かみ)を大切に思い頼りにもし、馬の頭も親王に忠節で大切に思い申し上げるという主従関係以上の心の深いところでつながっているのです。
他の段とは違った味わいの段と言えます。
小野の雪(伊勢物語)原文+現代語訳はこちらへ
前段の「渚の院」~桜がなかったらよいのに ! はこちらへ
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