紫の上の死
(源氏物語/御法)1/5
~女性の死にざま part 1
『源氏物語』とは
『ブルタニカ国際大百科事典』によると、世界史上女流の文学者は、ギリシャ時代にサッフォーという詩人が知られてますが、以降「古代・中世を通してみるべき女流作家は出現せず」、19世紀になって、イギリスでブロンテ姉妹や G.エリオットらの小説家が登場することになります。それに対して、「日本の平安時代に『源氏物語』の紫式部をはじめ,清少納言,和泉式部そのほかの偉大な才女が輩出したことは特筆すべき文学現象である。」とされています。古代に女性が文学作品を書き、しかも、その作品が今に残っているのは、世界でもこの日本だけだということです(こちらを)。日本の文学の歴史が海外の知識人に特別視されていること、当の日本人で知らない人もいるようです。
登場人物
●光源氏 『源氏物語』の主人公。母親桐壺の更衣は特別な出自でなかったことなどから、他の女御・更衣たちから疎まれ、嫌がらせを受け、光源氏を出産するが、源氏3歳の時亡くなってしまう。父桐壺帝から深い愛情を受けたが、右大臣などの勢力からの圧迫を逃れるため臣籍降下し「源氏」を賜(たまわ)った。
●紫の上 光源氏が北山に病気療養に出かけた時、偶然見い出した女の子で、ひそかに思慕していた父桐壺帝の配偶者藤壺、つまり、義母によく似ていました。式部卿宮の娘、藤壺の姪 (めい) と分かります。光源氏は後に手元に引き取って理想の女性として育てました。妻葵(あおい)の上の没後、正妻格としてあつかわれました。
●明石の中宮 中宮とは現在の皇后に相当します。源氏が流離の身であった時結ばれた明石の君との間にできた姫君で、後に東宮妃となります。実母明石の君の出自(しゅつじ)を考え、源氏は手元に引き取り、正妻格の紫の上に育てられました。子ができなかった紫の上によって、美しく育ちました。
与謝野晶子訳「紫の上の死(源氏物語/御法)~女性の死にざま part 1」(youtube「きくてん」の訳とは異なります。与謝野訳に少し手を加えています。)
失礼であると思い心苦しく思いながらも、お目にかからないでいることも悲しくて、西の対(紫の上お住いの屋敷)へ宮(明石の中宮)のお居間を設けさせて、夫人(紫の上)はなつかしい宮(中宮)をお迎えしたのであった。夫人(紫の上)は非常に痩やせてしまったが、かえってこれが上品で、最も艶(えん)な姿になったように思われた。これまであまりにはなやかであった盛りの時は、花などに比べて見られたものであるが、今は限りもない美の域に達して比較するものはもう地上になかった。その人が人生をはかなく、心細く思っている様子は、見るものの心をまでなんとなく悲しいものにさせた。
女性の死にざま
紫の上が病を得たのは五年前でした。その後、とかく体調がすぐれず、出家を願いますが、源氏は許しません。その年の夏になって、消え入るばかりに衰弱してきました。死を予感した紫の上は、明石の中宮に死後のことを託するのでした。こうして酷暑が続き、秋の気配が立った。時に、源氏は51歳、紫の上は43歳でした。
明石の中宮(紫の上の手によって養育された)は、帝から参内するよう再三お呼びがありましたが、義母紫の上の容体が気がかりで、六条院(源氏の邸宅)を離れることができません。中宮は、紫の上の容体が少しよい折に見舞います。比類もない美しい人が心細くしているのを目にして、ほんとうに悲しい気にさせるのでした。
『源氏物語』では、源氏の愛人夕顔・源氏の正妻葵の上をはじめ多くの女性の死が描かれています。夕顔は源氏の年上の愛人六条御息所のものと思われる生霊に襲われた直後に(こちらを)、葵上は源氏の薄情(はくじょう)を恨みながらとか、穏やかでない死に方をしています。
紫式部は女性の死にざまに、並々ならないこだわりを持っていたようです。『源氏物語』の女主人公、光源氏の正妻、天上的な女性として描かれてきた紫の上の死を紫式部はどのように描くのでしょうか。
「紫の上の死 2/5(源氏物語/御法)~女性の死にざま part 2」はこちらから。
「紫の上の死 3/5(源氏物語/御法)~女性の死にざま part 3」はこちらから。
「紫の上の死 4/5(源氏物語/御法)~死を悼む人たち part 2」はこちらから。
「紫の上の死 5/5(源氏物語/御法)~死を悼む人たち part 1」はこちらから。
コメント
コメントを投稿