安部公房
『赤い繭』
~「ここは私の家では
なかったでしょうか ? 」?!
安部公房(あべこうぼう)とは
新潮社のサイトで次のように紹介されています。
1924年東京生れ。東京大学医学部卒。1951(昭和26)年「壁」で芥川賞を受賞。1962年に発表した『砂の女』は読売文学賞を受賞したほか、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。その他、戯曲「友達」で谷崎潤一郎賞、『緑色のストッキング』で読売文学賞を受賞するなど、受賞多数。1973年より演劇集団「安部公房スタジオ」を結成、独自の演劇活動でも知られる。海外での評価も極めて高く、1992(平成4)年にはアメリカ芸術科学アカデミー名誉会員に。1993年急性心不全で急逝。 前衛的で実験的、超現実主義と言ってもいい作風。共産党に入党経験があり、マルクス主義(こちらを)が教養の一部となっています。ただし、ライナー・マリア・リルケ(こちらを)やマルティン・ハイデッガー(こちらを)、その他実存主義(こちらを)の影響を受けていると言われ、作品群の鑑賞・解釈は一筋縄に行かない面があります。ノーベル文学賞の候補者だと言われていました(⇒『実はあの作家も!?ノーベル文学賞を「逃した」日本の文豪たち』こちらを)。
物語が進むにつれて、「おれ」の靴の破れ目から絹糸が出てきて、それをたぐりつづけた末に、最終的に「おれ」の肉体は解体してしまい、繭(まゆ)になってしまいます。繭の中はいつまでも夕暮れで、赤く光っていた。繭になった「おれ」は「彼」とされる人物に拾われ、「彼」の子供の玩具箱にしまわれるという奇妙な結末を迎えます。
テーマについて
全体を要約すると、
「おれ」は夜になって体を休める「家」を持たないし、その理由もわからない。ある家の女にその家が「おれ」のものではないか問い詰めたが拒絶された。「公園のベンチ」を「家」代わりにしようとしても、「棍棒を持った彼」からここはみんなのものだから出て行かないと処罰するぞと追い払われた。結局、追い詰められた「おれ」が消滅することで「赤い繭」となり、それが「おれ」の「家」となったがそこで休む「おれ」はいなくなった。
ということになります。安部公房はこんな寓意小説(こちらを)を書いていました。
ということになります。安部公房はこんな寓意小説(こちらを)を書いていました。
この小説のテーマを一文で書くと、
私有を前提にする秩序に疑問を持ち行動する者は、拒絶され排除されることとなり、その中で安らぎを得るためには、反秩序となる考えや行動を捨てなければならないが、そうすると安らぐはずの自己は消滅するという、皮肉な結果になる。
としていいでしょう。さらに、敷衍(ふえん)一般化して、
秩序を受け入れられない者は排斥され、かといって、秩序の中で安寧を得ようとすると自己を喪失しなければならないこととなり、いずれにせよ、安寧を得ることは不可能だ。
というようなこととしてもいいでしょう。でも、チョー抽象的過ぎますよね。
このような題材でこんなテーマの小説が書かれたのには、時代的かつ情況的切実さがあったのです。
《共和制とか選挙などの民主制は見せかけにすぎなくて一党で統治されている。人民の平等をうたう党名や国名を持ちながら、党ヒエラルキーの頂点に上っていくほど等比級数的に利権や収入を得ることができる。兆円代の資産を持つ超資産家も多数存在する。党内上層部では陰謀術数を尽くしての権力争いが繰り広げられ、それに敗れた者がもっともらしい罪状で始末される。そして党内上層の特権階級たちは海外に資金を移し、家族を先進国に移住させるなどしていつでも逃げ出せる準備をしている。党や行政のポジションは私腹を肥やす手段となっていて、世の中は口利き・賄賂は当たり前のように横行している。
さらに、物語の中で「おれ」が感じる不安や孤独は、読者に強い共感を呼び起こします。安部公房は、この作品を通じて、人間の存在意義やアイデンティティの問題を問いかけています。『赤い繭』は、その象徴的な描写と深いテーマによって、読者に多くの考察を促す作品となっています。
家とは
この小説、敗戦間もない我が国の現実や人々の生活が分かると、より正確かつ深く理解できます。
この小説が書かれた1950年は我が国が先の大戦に敗北して5年後です。この国土は米軍の機銃掃射(カラービデオはこちらへ)、通常爆弾(こちらへ)・焼夷弾(しょういだん。こちらへ)さらに原子爆弾(こちらへ)投下によって焼け野原にされ(こちらへ)、日本人にとって「住まい」を確保するのは何よりも切実なことでした。多くの人たちが「バラック小屋」で夜露をしのいでいました(こちらへ)。そういう時代背景があって、「家」がこの小説の題材にされていると考えられます。
言われてみると、家に象徴される物や土地の私有は不変かつ普遍的なものとは言えないわけです。共産主義(こちらへ)はそれらを共有すべきものとするイデオロギー。「おれ」が問いかけていることとなります。私有の根拠とは何かという問いかけと言えます。
長崎県佐世保市
米国国立公文書館
(National Archives and Records Administration)
共産主義へのシンパシー
ここでは、作者は私有の論理によって成り立っている資本主義社会への根本的問いかけをしているようです。共産主義(こちらへ)の論理にシンパシーを持っているようです。当時の多くの知識人、リベラリスト、そして、新聞などのメディアも共産主義とソ連(1991年に崩壊した国家で、現在ロシアとして残っています。詳しくはこちらへ。)などの社会主義国家にシンパシーを持っていました。
「おれ」の論理とそれにもとづく行動は資本主義社会に生きる私たちには非常識なものです。けれどその私たちの論理や常識は普遍的かつ不変なものなのだろうかと問いかけているわけです。
敗戦直後(1945年9月)から、GHQ(連合国最高司令官総司令部)はプレスコード(Press Code:新聞・出版活動を規制するために発した規則)を発し、厳しい言論統制を行います。この規則は昭和27年、講和条約が発効されるまで続けられました。
1950年、共産主義国家北朝鮮とアメリカの同盟国の韓国との戦争、朝鮮戦争(1950-1953)が勃発します。この前後の時期、GHQは共産主義の思想・運動・政党に関係している者を公職や企業から追放するよう指示します。この一連の出来事をレッドパージ(Red purge:赤狩り)といい、約1万3千人が強制的に職場を解雇されました。このような状況で、共産主義へのシンパシーが暗喩的に書かれているととらえられます。
秩序v.s反秩序
しかし、その後の顛末(てんまつ)は作者がにおわせている共産主義・社会主義へのシンパシーに対して皮肉なことになっているようです。こんな秩序でできている国があると仮定します。
《共和制とか選挙などの民主制は見せかけにすぎなくて一党で統治されている。人民の平等をうたう党名や国名を持ちながら、党ヒエラルキーの頂点に上っていくほど等比級数的に利権や収入を得ることができる。兆円代の資産を持つ超資産家も多数存在する。党内上層部では陰謀術数を尽くしての権力争いが繰り広げられ、それに敗れた者がもっともらしい罪状で始末される。そして党内上層の特権階級たちは海外に資金を移し、家族を先進国に移住させるなどしていつでも逃げ出せる準備をしている。党や行政のポジションは私腹を肥やす手段となっていて、世の中は口利き・賄賂は当たり前のように横行している。
テレビの内容が当局で不都合と考えるとブラックアウトになったり、ネットも管理され当局が不都合と考えるサイトはブロックされ削除される。
それでも数十年前不合理な政策による飢饉や政治闘争に動員されて何千万という死者を出していたのに比べれば、現在では先進国の支援を受けたりして、都市部にいる人たちは車を所有したり旅行ができるなど豊かになった人たちも多くなり隔世の感がある。
いっぽう、農村の人々は収入も社会的保障も低いままだが、都市部に引越して戸籍を持つことは許されていない。
こんな現実に異議を申し立てると、当局に警棒で殴られ逮捕・拘束されたり、拉致されたり、獄舎に閉じ込められたり、不審な死を遂げたりする。世界有数の軍事費を使いながら、国民の監視・弾圧などの治安対策費のほうが多い。》
そんな秩序で成り立っている国があったとしたら…?私たちがふつうだと思っていることをその国で発言したり行動したりすると私たちはこの小説の「おれ」となるのです。そして世界にはこのような私たちには決して許容できない支配・統治がまかり通っている多くの国・地域が存在しています。私たちの論理や常識は普遍的かつ不変なものではないのです。
安寧(あんねい)の断念
『赤い繭』では、次の二項対立(二分法)が描かれています。
【「女」・「棍棒を持った彼」】v.s 【「おれ」】
これは次の暗喩となっていると考えていいでしょう。
【秩序】 v.s 【反秩序】
結局、秩序を疑う者が秩序の中で安寧(あんねい)を得ようとすれば秩序を疑う思考と行動を捨てなくてはいけないこととなる。しかし、それは主体としての行動が終わることとなり、時が停止し自己は消滅することを意味します。比喩的に言うと、「玩具箱」のおもちゃのような(=主体的に考え行動することのない)存在になるしかない…?ことになるわけです。
別の言い方をすると、共産主義の実現を実践する限り、秩序から拒否され、秩序維持の暴力装置(=「棍棒を持った彼」)から弾圧され、安寧(あんねい)を得るべくはない。しかしながら、一方、自己の信念と実践を断念すると自己が消滅することとなる。そんな意思表示が語られているようです。
秩序の継続
ソビエト社会主義共和国連邦(略してソ連と呼ばれていました)をはじめキューバ共和国など、先に「皮肉なことになるが」と言ったが、作者がシンパシーをほのめかしている共産主義を旗印にした国家体制や統治の実験は、現在のところ実質的に破綻に終わったと言わざるを得ません。その中で現在でも生き残り、自国民に悲惨な生活を強いたり、周辺諸国の脅威となっている国も存在します。
私たちは当たり前のように、私有を前提にした資本主義と民主主義の社会の中で生きています。そこで見逃してはいけないことは、人類が社会をなして生きていく限り、その秩序の周縁に少数者・疎外される人たちを作ってしまうのは避けられないということです。
そんな秩序を維持継続していくには少数者を尊重し被疎外者を擁護する装置が必要であり、そのため人権の尊重・公正正義の実現・法的平等の徹底・適正な富の再分配などが実現されているか、不断の点検が不可欠であることを、人類は学習してきました。また、しかし、ポリティカル・コレクトネス(こちらを)の尊重は過度になることなく公正なものでなくてはならないという視点も大切なことです。と同時に、資本主義は富の過度な偏在や独占によって秩序を危機に陥らせる可能性を持つ経済システムであるという観点も重要です。
そして、一方、時に全く異質な秩序を目指す勢力を作って既成の秩序を転覆しようとする者たち(イ〇ラ〇国、先の仮定したような国かも)もあらわれ、それに目配りしどう対処するのか。
秩序v.s反秩序、解決できる日は来るのでしょうか?
ずっしりと重ーい小説です。
また、この作品、"社会や共同体から疎外される自己"など、これまで述べていたのとはかなり異なる読み方もなされています。例えば、「作品解説|安部公房『赤い繭』」(こちらへ)などです。
人工知能チャットGPTの回答は ?
この作品は、居場所を失った人間の孤独や、社会からの疎外感を描いています。「おれ」が繭になるというメタファーは、自分の殻に閉じこもる「引きこもり」を象徴しているとも解釈されています。また、「おれ」が家を探し求める過程で遭遇する出来事や人物は、現代社会における人間関係の複雑さや、他者との疎外感を反映しています。
さらに、物語の中で「おれ」が感じる不安や孤独は、読者に強い共感を呼び起こします。安部公房は、この作品を通じて、人間の存在意義やアイデンティティの問題を問いかけています。『赤い繭』は、その象徴的な描写と深いテーマによって、読者に多くの考察を促す作品となっています。
これが、現在おもにネット上で収集できる、アクセス数が多く、妥当と考えられる言説をまとめた回答になるのでしょう(この項、追記2024.9)。
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