城の崎にて(志賀直哉)本文 朗読はこちらへ。
全体の流れは
自分の死骸を想像したりはちの死骸を目にして、死に親しみを感じた。
↓ ↓ ↓
致命傷を負って必死にあがいているねずみを見て、自分は死に直面して死にたくないと抗うかも知れないし、静かに死んでいけるかもしれないが、あるがままであるしかないと思う。
↓ ↓ ↓
小川にいたいもりを水の中に入れようとして投げた石が、偶然命中していもりは死んでしまった。
↓ ↓ ↓
いもりの死を目にして、生きているのと死んでいるのはそれほど差はないと思った。
↓ ↓ ↓
そうであるのなら、死と生についてあれこれ考えていたことは無意味なことではないかとすごく混乱した心持ちになってしまった。
↓ ↓ ↓
結局、予定していた最短の三週間いて城崎を去った。
↓ ↓ ↓
あれから三年以上経過したが、脊椎カリエスが発症することだけは避けられた。
的確無比な描写
次は「自分」が投げた石が偶然いもりに命中した直後の描写です。
石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時にいもりは四寸ほど横へ跳んだように見えた。いもりはしっぽを反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当たったとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。するとひじを張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。
余分な装飾や情緒を極力排除し、いもりの死に至りゆくありようがくっきりと描き出されています。まさに、日本語表現(小説)の達人と言われる作家だなと思います。同時代の作家で「痴人の愛」などを書いた、唯美志向の谷崎潤一郎も日本語表現の達人と言われていますが、志賀直哉と対極にある達人ではないでしょうか。
アブノーマルであること
「自分」(この小説の語り手として設定されている人物)に特に目を惹くようなことが起こることもなく、はちなどの小動物の死をめぐって目にしたこと考えたことが淡々と書かれていて、退屈だな、つまらないと思った人もいるでしょう。
自分の死後を次のように語っている箇所に注目してみましょう。
ひとつ間違えば、今ごろは青山の土の下にあお向けになって寝ているところだったなと思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。…〈中略〉…それは寂しいが、それほどに自分を恐怖させない考えだった。
こんな風に三週間、絶えず「死」についてああでもないこうでもないと考え続けるのは、かなりアブノーマル。でも、アブノーマルな感覚や思考が文学の原動力、たとえば、見えないものを可視化してくれるような力であると考えてもよいでしょう。その観点からこの小説を読むと、生と死の境界を可視化しようとしたが、結局、その境界などないことに気づいたとも解釈できるのではないでしょうか。
志賀直哉
2/2 解答/解説
問1 ①…サ ②…キ ③…ウ ④…エ ⑤…シ
問2 その気が全くないのに殺してしまった(17字)
(「いもり」を殺す気持ちはぜんぜんなかったのに、まったくの偶然で石が「いもり」を直撃してしまった! 字数制限はヒントでもある。 問3の「生死は偶然に支配されている」ということにつながっていきます。)
問3 生きているのは偶然死なずにすんでいるのであり、何かのはずみで死んでいることもある。
(「生死」に特別な意味づけをすることは無意味という認識に至っているわけです。生き物の生死は偶然に支配されている、そういった宿命に支配されていることを「生き物の寂しさ」と述べています。生と死を二項対立〈両極〉ではなく、連続するもの〈それほどに差がない〉と独特な感受性でとらえられています。)
問4 白樺派 暗夜行路
a.Q
1 その気が全くないのに殺してしまった (17字)
2(1)解答例…「生死」をめぐって修正を迫るような体験が次々に起こって心身ともに不安定になり、それ(三週間)以上滞在することに堪えられなかったこと。
(2)解答例1… 脊椎カリエスは発症しないですんだが、今は、生き物の生死が偶然に支配されている以上、いつどんな事態が降りかかってくるか分からないという認識を積極的に受け止めているということ。
解答例2…三年が経過して脊椎カリエスに罹(かか)り死ぬようなことは逃れられた。しかし、いつなん時死ぬような事態が訪れてもおかしくないのだと今は思っていること。
コメント
コメントを投稿