ゆする杯の水(蜻蛉日記)~もう、来ないからな !  夫(兼家)の捨てぜりふ

  ゆする杯(つき)の水 

「蜻蛉日記」

 ~もう、来ないからな !  夫(兼家)の捨てぜりふ 

【参考動画】超訳マンガ百人一首物語
第五十三首(右大将道綱母

 「ゆする杯(つき)の水」(蜻蛉日記)を現代語で 

 兼家様が訪れて、のどかな気持ちで過ごしている日に、ほんのささいなことを言いあったすえに、私もあの人もあしざまに言うようになって、兼家様は恨み言を言って出ていく結末になってしまった。兼家様は縁先のほうに歩み出て、幼い人〔=子息の道綱〕を呼び出して、
「わたしはもう来ないからな。」
などと言い残して、出て行くとすぐさま、その道綱は部屋に這って入って来て、激しく大声を上げて泣く。私は
「これはいったいどうしたの、何があったの。」
と声をかけるが、道綱は返事もしないで泣くので、どうせ、そういうことだろうと、察しはつくけれども、侍女が聞くのもいやでまともでないようなので、わけを聞くのをやめにして、あれこれと道綱をなだめているうちに、五、六日ほどになったのに、兼家様からは何の音沙汰もない。いつもとは違う隔たりになったので、狂気じみていることだ。冗談だとばかり私は思っていたのに。もともと頼りない仲だから、このまま終わりになるようなこともきっとあるだろうよ、と思うので、心細くてもの思いにふけっているときにふと見ると、兼家様が出ていった日使ったゆする坏(ゆするつき=髪の手入れをするための水を入れておく器)の水は、そのままあるのだった。水面にほこりが浮いている。こんなに(なる)まで(あの人は来てくれないのだわ)、とあきれて、

 絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水草ゐにけり 

などと思っていたちょうどその日に、兼家様は姿を見せた。本心を問いただしたい思いはいつもの調子でうやむやになってしまったよ。このようにひやひやするときばかりあるのが、全く気の休まることもない、それがつらいのだった。

「ゆする杯の水(蜻蛉日記)」原文・現代語訳こちら


 作者はどういう人 ? 

 平安時代の女性の本名は、その多くは伝わっていない。『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者は、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母親だったので藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは。道綱の後の職名から「右大将道綱の母」とも。)とよばれています。

 父親は地方官を歴任する中流階級の娘。少女時代、和歌の素養、漢詩文の知識、琴・絵画・裁縫(さいほう)の技芸を培(つちか)ったといいます。紫式部清少納言も同じような階級の出自(しゅつじ)です。


 夫の藤原兼家とはどういう人 ? 

 道長の父親と言ったら解りやすいでしょうか。時の右大臣師輔(もろすけ)の三男。藤原北流の嫡流(チャクリュウ 本家の家筋の意)、トップ階級の貴族。作者と結婚する前から藤原中正の娘時姫という正妻がいて、道隆・道兼・道長・超子(ちょうし)・詮子(せんし)らを産み、将来男子は摂関家の後継に、女子は入内(じゅだい。中宮・皇后・女御として内裏に入ること)して女御となるなどして藤原摂関政治の隆盛期を支えることとなりました



 どういう夫婦関係? 

 平安貴族の結婚の形は現代の私たちとはとはまったく異なる通い婚・招婿婚(しょうせいこん。こちらを)一夫多妻制で正妻は一人でした。

 兼家には妻妾(さいしょう)が十人ほどいたようです。作者は道綱を産みますが、兼家との不和がもとでこころ安まる日々はないようでした。中流貴族の娘が、正妻もいる権勢家(けんせいか)と結婚したのですから、複数の女性との関係は予想すべきでした。しかし、作者は兼家の愛情を一途(いちず)に求めたのです。

 当時の一夫多妻のあり方や身分差を考えれば、二人の夫婦関係はむしろよいものであったといえます。しかし、兼家の愛情を独占しようと、望むべくもないこと望んだところに作者の苦悩が続いたともいえます。

 夫婦関係のリアル 

 久しぶりに夫が訪れて昼間を過ごした。穏やかな気持ちで会話を交わしていたはずが、ふとしたことから口論になってしまった。兼家(かねいえ)の訪問が間遠(まど)うなことへの愚痴めいた事を口にしたのでしょうか。兼家は腹を立てて、道綱(みちつな)を呼び出して、「もう、ここには来ないよ。」と言い捨てて出て行ってしまったのです。道綱は大声をあげて泣きました。父親の捨てぜりふがよほどつらかったのでしょう。

 道綱は数えで12歳、当時は元服(成人の儀式)も近い年齢なので、大声をあげて泣くとはちょっと幼稚なのではないのか。作者から甘やかされて、年のわりには幼かったのかもしれません。あるいは、作者がこの場面を印象強くするために、そうであったかのように書いたのかもしれません。

 兼家(かねいえ)は、作者の家から帰る際、幼い道綱に「また来るよ。」と言い残していたらしく、道綱が片言を話すようになった時、その言葉を聞きおぼえて口真似をしていたという記述があります。だから、今回は、「もう、ここには来ないよ。」という父親の言葉に過剰に反応したのかもしれません。道綱の悲しみはそのまま作者の悲しみであったのです。

 ふと見ると、夫が使ったゆする杯(髪の手入れをするための水を入れておく器)にほこりが浮いているのに気づく。夫が来てくれなくなってこんなに日がたってしまった…夫の心は、すっかり離れてしまったのか?

 絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水草ゐにけり 
 〈二人の仲は終わってしまったのですか。せめてこのゆする坏の水に映るあなたの姿でもあれば尋ねることができるのに、(あなたが残していった)形見の水には、水草が浮いています。(あなたの姿は映らず、心中を尋ねることもできません。)〉

ゆする杯の水(蜻蛉日記)原文/現代語訳こちらから。


 『蜻蛉日記』とは 

 平安中期、藤原道綱母(みちつなのはは)の書いた回想録的な日記。時の右大臣藤原師輔(もろすけ)の三男兼家(かねいえ)の妾(しょう)となり、974年(天延2)に兼家の通うのが絶えるまでの、20年間の記事からなる。『蜻蛉日記』という書名は、日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし(⇒相変わらずのものはかなさを思うと、あるかないかもわからない、まるでかげろうのような身の上話を集めた日記と言えばよいのかしら)」より。

 

 表現史上の位置 

 「蜻蛉日記」は、今から1050年ほど前、女性が書いた最初の本格的な日記文学。内面に生起し起伏する名付けようのないものを言葉によって形象化して、内面世界を構築していこうとしたもいえるでしょう。表現史的には、源氏物語」が書かれるのに不可欠であった作品と言われています。



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