光源氏が17歳の夏、親しくなった夕顔と「なにがしの院」とされている邸で一夜を共にしたとき、女の生霊が現れたあと夕顔が急死してしまいました。(詳しいいきさつはこちらへ)
その夕顔には頭の中将との間に娘玉鬘がいました。夕顔急死の混乱の後、玉鬘は母夕顔の死を知らず、乳母に庇護されて九州で暮らしていましたが、そこで辛酸の経験の末に逃れるように上京しました。京には当てにできる人はいず、玉鬘一行は奈良の初瀬寺(はつせでら=今の長谷寺)に願掛けに向かいました。
最後まで夕顔のそばにいた女房の右近は、今は源氏に仕え紫の上づきの女房になっていました。
初瀬寺での思いがけないめぐりあい(「玉鬘~めぐりあい」を現代語縮約で)
ここは、右近の一行と玉鬘の一行が初瀬詣でたまたまめぐり合う場面です。初瀬寺(はつせでら)は長谷寺の古称です。(源氏物語「玉鬘」(玉鬘)本文+現代語訳へ)
京を出発して四日目の朝、玉鬘一行は椿市(つばいち)に疲れ果てて到着しました。足が動かなくなり、どうしようもなくお休みなさる。一行には豊後の介、弓矢を持つ男二人、下働きの者や子供たち、そして三人の女性が含まれており、彼らは目立たないように行動していました。宿で仏前のお燈明(とうみょう)の用意をしていると、宿の主人である法師が、お目にかなう客ではないらしく、文句を言いに来ました。その後、別の一行が到着し、その中には身分の高い女性二人と十数人と見えました。彼らもまた、目立たないように質素な装いをしていました。宿の主人は彼らを宿に泊めたがっていましたが、玉鬘の一行は宿を変えるのが面倒で、みっともないことと感じたため、自分たち一行は部屋の隅に身を寄せ、軟障(ぜじょう=間仕切り用の幕)を使って境界を作りました。新しく来た人々も控えめで、お互いに遠慮しあっていました。実は、新しく来た人々の中には、亡き主人夕顔の忘れ形見である姫君玉鬘をずっと恋い慕っていた右近も含まれていました。
「右近は年月が経つにつれて、(主人が誰かはっきりしないような)中途半端な現在の奉公がどうもしっくりしなくなってきた。初瀬詣はいつものように馴れているので、軽い気持ちで参詣したが、徒歩での疲労に耐えられず、物に寄りかかって座っていた。隣の一行で男の声がする。実はこの男は、乳母の息子の豊後の介であった。折敷を持ってきて、「これは姫君に差し上げてください。ちゃんとした脚付きの御膳もそろっていず、恐縮千万なことですよ。」と言う。隙間から覗くと、この男の顔を見たような気がするが、誰かは思い出せない。豊後の介は以前若かったが、今は太って色が黒くなり、みすぼらしい身なりだ。主人と思われる人は見えない場所にいて、のぞき見できない。どうしていいか考えあぐねて、下働きの女(三条)に尋ねることにする。
「思い出すことができませんわ、筑紫の国で二十年ばかり過ごしてきたこの卑しい身を、ご存じでいらっしゃる都の人とは。人違いではございませんか。」と言って寄ってきた三条は、田舎くさい掻練(かいねり)の小袖に絹の薄い上着を着て、太っていた。彼女は顔を差し出し、「もっとよくのぞいてごらん。私を知っていますか。」と言った。こうして、両一行は縁深い間柄にあることを知ることになったのです。年取った乳母は感慨にふけりながら、三人とも涙ながらに泣いた。
乳母は「ご主人(=夕顔)様はどうなさいましたのですか。長年の間、夢の中ででもお元気なご様子を見たいものだと大願を立てましたが、遠い田舎に住んでいるせいで、風の噂にもお聞き伝えすることができないでいたことを、たいそう悲しいことと思っていたのですが、年老いた身でこうして生き残っているのもまことに情けないことですけれど、ご主人様がお見捨て申してしまわれた若君(玉鬘)が、いじらしくおかわいそうなご様子でこの世にいらっしゃるのを(おいて死んでいくわけにもいかず、それを)死出の旅の妨げとして、お取扱いに困りながら、こうしてまだ目もつぶらずに生きております。」と語った。
案内の者が「日が暮れますよ。」と騒ぎ始め、右近と乳母は家の外へ下り立った。右近は、後ろ姿でひどく粗末な身なりの姫君(=玉鬘)を見て、その美しさに感嘆した。少し歩き馴れている右近は、はやくも御堂に行き着いたのである。
源氏、玉鬘を迎え入れる
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