きも試し/道長の豪胆
「大鏡」
~新しい理想の男性像
藤原道長とは
織田信長・豊臣秀吉は天下人(てんかびと)と呼ばれますが、藤原道長は平安時代の天下人と呼んでよいような人物で、「一の人」と言われました。兼家の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている)」と詠(うた)ったというのは有名。一条天皇の后となった娘の彰子に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部です(こちらを)。
花山(かざん)天皇の命じた、深夜のきも試し=現代文による縮約
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花山天皇、深夜の肝試しのご命令
偉くなるお方は、若いころから胆力(たんりょ=度胸のよさ)と神仏のご加護に恵まれているようです。
五月下旬(=現暦の六・七月)の雨が気味悪くざあざあ降るある夜、花山帝(かざんてい=こちらを)が殿上の間(てんじょうのま=内裏の上位の貴族が伺候する部屋)で人々と遊んでいらっしゃったが、話が昔恐ろしかった話に移っていた時に、花山帝は
「今宵はとても気味が悪いような晩だなあ。このように人が多いのに、なにやら恐ろしく感じられる。まして、人気のない離れた所はどうであろうか。そんな所に一人で行けるだろうか。」
とおっしゃったので、人々は
「とても参れますまい。」
とばかり申し上げたのに、道長様は、
「どこへなりとも参りましょう。」
と申し上げましたので、花山帝はそうしたことを特に面白がるご気性のお方ですから、
「それはおもしろいことだ。それでは行ってこい。道隆は豊楽院(ぶらくいん)へ、道兼は仁寿院(じじゅういん)の塗籠(ぬりごめ=土壁で覆われた個室)へ、道長は大極殿(だいごくでん=こちらを)へ行け。」
とおっしゃいました。道隆様と道兼様はお顔色が変わって困ったことだとお思いになっていましたが、道長様は、
「自分の従者は連れて参りますまい。この宮殿の警備の者でも、滝口の武士(=内裏の警護に当たった武士)でも、そのうちの一人に(案内役として)『昭慶門まで送れ』とご命令お与えください。そこから中へは一人で入りましょう。」
と申し上げました。花山帝は、
「(一人で行ったのでは、確かに行ったという)証拠がないことになるではないか。」
とおっしゃいましたので、
「なるほど、そうでございます。」
と言って、花山帝の手箱に置いていらっしゃる小刀(こがたな)を拝借(はいしゃく)してお立ちになりました。さらに他のお二方も、苦虫を噛み潰(つぶ)したような顔つきをして、雨降る漆黒(しっこく)の闇の中へ、それぞれお出かけになられました。
清涼殿を出て、道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿院の塗籠へ、道長は大極殿へ向かった。
道隆さまと道兼さま
丑の刻(うしのこく=午前一時頃)ころ、花山帝は
「道隆は右衛門の院より、道長は承明門より出ろ」
と出ていく道筋までご指示なさった。道隆様は宴(えん)の松原あたりで不気味な声が聞こえてくるのでがまんできずお帰りになりました。道兼様は、仁寿院の東石畳(いしだたみ)あたりに、背丈(せたけ)の異様に高い人のようなものに遭遇し、正気をなくしてお引き返しになりました。花山帝はみ扇をたたいてお笑いになりました。
道長さま
道長様さまはだいぶ経って、何事もなかったように、御前(ごぜん/みまえ)に戻ってこられたのです。花山帝が
「どうであったか、どうであったか」
とお尋ねなさると、道長様は、
「手ぶらで帰って参っただけでは、証拠にはならないでしょうから、高御座(たかみくら=こちらを)の南面の柱の下の部分を削って持ち帰ったのでございます。」
と平気なようすで申し上げました。花山帝もとても驚きあきれていらっしゃいました。他のお二方のお顔色は、依然として元に戻らないでいます。道長様がこのように帰って参られたのを、花山帝をはじめ周りの人たちが感心して褒めそやされたのですが、他のお二方はうらやましく思ったのでしょうか、それともどのような理由ででしょうか、何も言わずに控えていらっしゃいました。翌朝、花山帝は、蔵人(くろうど=こちらを)に例の削りくずをあてがわせてみたところ、ぴったり合っていたという。後の世でも、その削り跡は残っている。(「太政大臣道長」より)
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道長の描き方
兄(道隆・道兼)二人と対比させ、道長の「心魂(こころだましい=度胸)」がいかに優れていたかを説いています。
兄二人がいかにも小心にびくびくしているのとは対照的に、道長は途中まで見届け役をつけるよう申し出たり、証拠を残すために小刀を拝借したりして余裕しゃくしゃくです。
また、途中から逃げ帰った兄二人に対して、道長は平然として高御座(たかみくら=こちらを)の柱を削り取って帰ってきました。
物忌(こちらを)とか方違え(かたたがえ=こちらを)などがごくふつうに行われていた時代であり、生霊や霊怪が暗闇の中で跳梁し人を脅かす(と当時の人は実感していた)なか、道長の行動はあきれるくらい度胸があり大胆なものと受け止められたことでしょう。
新しい男性像
このエピソードで、道長は物の怪(け)など恐れることなく平然と沈着に行動する。ここでは、これまでの物語文学とは異なる理想の男性像が描かれていると言ってよいでしょう。すなわち、学問や和歌の教養や楽器の演奏よりも、「心魂(こころだましい)」に秀(ひい)でる度胸がすわり豪胆さ胆力のある人物を理想としているようです。
「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がまたかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
「大鏡」は、約百九十年の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、「枕草子」などの女流文学者が表の世界を描いたのに対し、「大鏡」は裏の世界を描いたともいえます。作者は未詳(みしょう)でいろいろと推測されているようです。権力中枢やその周辺にある人であることは間違いないのでは。藤原氏を中心とした権力闘争の実相を冷静に、しかも、いきいきと描きだしています。秀逸なストリー・テーラーだったようです。
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