『土佐日記』とは
今から1100年ほど前(平安時代)に、我が国で初めて書かれたとされている日記文学です。
作者紀貫之(きのつらゆき)が、書き手が女性であるかのように装って、ほとんどをかなで書き記しています。内容は、土佐(とさ。現在の高知県)の国司(中央から派遣され,任じられた国の行政・財政・司法・軍事全般を行いました)として赴任(ふにん)し、その任期が終えて京へ帰る一行(いっこう)の55日の出来事を日記風につづった作品です。
57首の和歌を含む内容はさまざまですが、中心となるのは土佐国(とさのくに)で亡くなった愛娘(まなむすめ)を思う心情、そして行程(こうてい)の遅れによる帰京をはやる思いです。諧謔表現(かいぎゃくひょうげん。ジョーク、駄洒落などといったユーモアという意味)を多く用いていることも特筆されます。
50日を越える船旅へ
日次(ひつぎ)に書かれたのではなく、旅の途上で漢文やかなで書かれたメモをもとに、帰京後、入念に書かれたと考えられています。
土佐(とさ。現在の高知県)から京都へ、現在ではマイカーなどで数時間(こちらを)。楽しく快適にドライブできます。しかし、1100年ほど前の旅は、現在とは異質なものでした。
「土佐日記」が書かれた時代、急峻(きゅうしゅん)な四国山地のため陸路で瀬戸内海側に出るのは困難。子供から年寄りまでの集団と多量の引越しの荷物、船旅をすることになります。でも、当時の船は、脆弱(ぜいじゃく)な造りで、大波に飲み込まれてしまったり、座礁し大破してしまう危険性にさらされていました。多くの泊(とま)りで天候をはかりながらの船旅でした。
さらに、瀬戸内海を根城(ねじろ)にした海賊に襲撃されるおそれもあります。しかも、貫之はそんな海賊を取り締まる側の国守をつとめていたので、報復をくわだてているといううわさを耳にしていたともいいます。
そんなわけで、ひとつ判断をまちがえればもろとも命さえ失ってしまうような旅であったわけです。55日間にわたる船旅でした。誇張して言っているのかもしれませんが、この船旅のために黒い髪だったのに白髪(しらが)になってしまったと書かれています。
当時は、旅中に身なりを整えたり体を清潔に保ったりするのに制限があり、見た目が見苦しくなっているのが常。だから旅から戻って町中(まちなか)に入るのは、人目につかないように夜にしていたそうです。1100年前の人たちの気遣いと配慮!
都の我が家に帰り着く
高鳴る気持ちをおさえながら、門を開けて自邸を目にします。
月が明るいので、とてもよく様子が見える。うわさに聞いていたよりもまさって、話にならないほど壊れ傷んでいる。(家だけでなく)預けておいた留守番の人の心も、すさんでいるのであったよ。(月明ければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりまして、言ふなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。)
深い失望と怒りがこみあげてきます。
信頼していたのに、それを裏切られたことを「家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり」と言っているのでしょう。
しかし、この後、貫之の事を荒立てることをよしとしない、穏(おだ)やかで賢明な人柄(ひとがら)がしのばれます。
隔ての垣根はあるけれども、一つ屋敷みたいなものだから、(頼みもしないのに先方が)望んで(この家を)預かったのだ。」「そうは言っても、ついでのあるたびに、贈り物も絶えずやってあるのだ。」「今夜(帰って来てみると)、こんなありさま(何の手あてもせず、とんでもなく荒れ果てているさま)だ。」と(人々は口々に言うが)、大声で言わせるようなことはさせない。なんとも薄情だとは思われるけれども、お礼はしようと思う。
(「中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。」「さるは、たよりごとに、ものも絶えず得させたり。」「今宵、かかること。」と、声高にものも言はせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。)
隣人も作者貫之も、現代の私たちの周りにもいそうな人たちですね。
😖😖😖😖😖
庭にあったはずの松が !
後半は、庭木の松をめぐって書かれます。
さて、池みたいにくぼんで、水のたまっている所がある。(その)まわりに松もあった。(だのに今夜見ると)五年か六年の間に、千年も過ぎてしまったのだろうか、(松の)半分はなくなってしまっていたよ。(そこに)新しく生えたのが混じっている。(池めいてくぼまり、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年六年(いつとせむとせ)のうちに、千年(ちとせ)や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。今生ひたるぞ混じれる。)
池も、以前の面影(おもかげ)が偲(しの)ばれないほど荒廃していることへの落胆が、皮肉を込めて書かれています。
自然と、土佐に赴任(ふにん)する前のことが数々と思い起こされる。なかでも、ここで生まれながら土佐で亡くなった娘のことが思われ、ともに舟で帰った人々の子供たちが大騒ぎをしているのを見ると、いっそう悲しさがつのってくる。
生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
(庭に生えている小松を目にすると、つい亡き女児のことが思い出され、悲しみがこみあげてくる。)
見し人の松の千年(ちとせ)に見ましかば遠く悲しき別れせましや
(あの子が松のように元気で丈夫な子であったら、あの遠い地で悲しい別れをしないでよかったのに…なぁ…。)
哀切さが、1100年後の現代の私たちの心にも響いてきます。
日本語は本来無文字言語でした。日本語を表記するのに漢字の音を利用し、そして、漢字を応用してかなを発明し(平安前期)、さらに、漢字かな交じりで日本語の文字表現ができるようになった(「竹取物語~かぐや姫のおいたち」こちらを)。それからおそらくニ・三十年して、この「土佐日記」が書かれたようです。文字表現は、コミュニケーションとしての会話(口頭)言語とは次元が異なるものです。
かなで文字表現ができるようになった初期に、これほど高度で緻密で完成度の高い作品が書かれていることに驚かされます。
帰京 問題解答(解説)
問1 a し 過去 d る 存続(「ぞ」の結びになるので連体形。) e ぬ 打消(「思い出さないこととてなく」と文脈上二重否定=「…打消し…なし」となると判断します。)
問2
(1) 解答例…(隣人に家の管理をお願いしていたのに、)こんなに荒れ果てているとはあまりにひどいことだよ(「かかること」とは「このありさまは」という意味。具体的にはその直前の「いふかひなくぞこぼれ破れたる」=「お話にならないくらい壊れ傷んでいるありさま」のこと。「あまりにもひどい」というような言葉を補う。)
(2) 解答例…隣人への怒りはあるものの、家人や従者たちが隣人を声高に非難するのを制して、無用ないさかいを避けようとするような分別があり穏やかな人柄。(この後、その隣人に家の管理への御礼をしようという箇所からも、道理をわきまえた理性的な人格者ぶりがうかがえますね。)
問3 松
問4 生まれし 見し人(「見し人」はふつう恋人や妻のことを言うが、ここでは後の「娘をいつまでも見ることができるならば」の関係で、「かつて見た娘」=「見し人」と表現している、と理解される。現代語では使わない言い方。)
問5 解答例…千年の齢(よわい)を保つという松のように、いつまで生きながらえていて、見ることができるとしたら(「の」は比喩の用法。「松のように千年の齢で」ということ。「~ましかば~まし」=反実仮想→出題されます。)
問6 平安時代前期・紀貫之・古今和歌集(「古今和歌集」の「かな序」の筆者であることも知っていてください。)
a. Q
1(1)解答例…(土佐に赴任する時に)池のまわりにあった松の半分がなくなっていたということ。(おそらく枯死した。または、切り倒して薪にしてしまったのか。)
(2)解答例…隣家への怒りと皮肉 (9字)
2 解答例…やっとのことで京の家に帰り着くことができ、喜びにわく周りの人々に(水を差したくないと)気をつかう気持ち。
3 解答例…ここで生まれたが土佐で幼くしてなくなった娘と、同じここで生えたばかりの松。
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