ふと心劣りするものは
「枕草子」
~清少納言、1000年前の言葉づかい論
「ふと心劣りするものは」(枕草子)を現代語で
ふと心劣りするものは(枕草子)原文+現代語訳はこちらへ
急に幻滅をおぼえるのは、男性でも女性でも、下品な言葉を使ったことで、何よりもみっともないことです。ただ、言葉遣い一つで、不思議なことに、上品にも下品にもなるのは、どうしてでしょうか。そうは言っても、わたし自身が特に言葉づかいに優れているわけではありません。だから、どれが良い言葉で、どれが悪い言葉なのか判別できるわけではないものの、なんとなくそんなふうに思われます。
ただ、自分の気持ちから言えば、下品な言葉も、まずい言葉も、それと知りながらわざと使っているのは悪くはない。しかし、自分勝手にこじつけたことを、はばかりなく口にしたのには、あきれます。また、そんなひどい言葉づかいをするはずのない老人や男性が、特に言葉を取りつくろい、田舎っぽい言葉を使うのは、いやらしい。良くない言葉も、粗野な言葉も、相当年配の人が平然と話しているのを、若い人は、非常にきまりが悪いことと感じてじっと聞いていることでしょう。
何を言うときも、「そのことさせむとす(そのことはそうしよう)」、「言はむとす(言おうと思う)」、「何せむとす(何々しよう)」という「と」の発音を省いて、ただ「言はむずる」、「里へ出でむずる(里へ下がろう)」などと言うと、たちまち非常に不快に聞こえます。
文章の場合、まずい言葉づかいで書かれていると、作者の常識までが疑われ、おかわいそうに思われることもあります。
「同乗して」の意味の「一つ車に」をなまって「ひてつ車に」と言った人もいました。そんな誤用は極端な例ですが、「求む」という言葉を「みとむ」などと誰もが言うようです。
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「ふと心劣りするものは」=保守的ことばづかい観
『枕草子』百九十五段の「ふと心劣りするものは」では、まず、男でも女でも、ことばづかいのいやしいのは幻滅を感じるという。つぎに、人と用語の関係を各方面から例示して、何の機知もない、あつかましいことばづかいを非難する。さらに、ことばのなまりを批判し、特に書き言葉に留意すべきだと言う。 結局、由緒ある格式の高いことばを用いるべしという主張になっています。
清少納言の、1000年前の人の文章、特に古代に女性が文学作品を書き残しているのは世界史上この日本だけ。その幸運を味わいながら読み味わいましょう。
「枕草子」とは
「枕草子」とは
現在、私たちが小説や評論とよんでいるものが、昔から存在していたわけではない事情は、『かぐや姫のおいたち(竹取物語) もっと深くへ ! 』で少し詳しく書いています(こちらへ)。
平安時代の初期(今から1200年ほど前)に、漢字を元にしてひらがな・カタカナが発明され、そうして初めて、私たちが日常使っている言葉で、心情や情景の文字表現ができるようになっていったのです(万葉仮名時代は除きます)。このようにして、かな文字で書かれる物語という新しい文学に発展していきました。文学史的には、こうして、架空の人物や事件を題材にした〈作り物語〉(「竹取物語」など)と、歌の詠まれた背景についての話を文字化した〈歌物語〉(「伊勢物語」など)の二つが成立したとされています。
さらに、見聞きしたことや、自然・人事についての感想・考え・評価などを自在に記す〈随筆〉として、千余年ほど前清少納言によって『枕草子』が書かれました。中宮定子(ちゅうぐうていし)に仕えた宮中生活の体験や、感性光る「ものづくし」を自在に著わした「をかし」の文学と言われている。『枕草子』も、日本人独自の感受性、ものの見方、思考の組み立て方の基層をなしていると考えられます。
言葉遣い管見
「ぬまっています(こちらへ)」と言われても、何のことかわからない人、大勢います。
近年、特にインターネットが普及してから、ことばづかいが急速に崩れ(イレギュラー化?)つつあると思います。「崩れる」と言ったが、メディアが変化し、発信者が増大し、人々の生活も変転はげしいのだから、ことばづかいが急変していくのも当然でしょう。特に、言葉遣いや表現について特に見識のない人たちがほぼ何の制限もなく、snsやyoutubeなどのネットメディアで発信出来ることの負の側面が増大しつつあると思います。
「友好国にはよく目くばせして、外交を行う必要がある」。インターネットの動画の番組で、新聞記者を経験した後、雑誌の編集長をしている人が何度も繰り返していた。念のために言うと、この人のスタンスには私はどちらかというと好感を持って視聴していますが、すこしがっかりさせられました。他にも、このように目配りと目くばせを取り違えている人が、それも、かなり教養のあるの立場の人と考えてよいはずだが、その主張なさっていることをどれくらい信頼すればよいのかと思ってしまう。NHKの「文研」というサイト(こちらへ)に次のようにあった。
私が思い違いをしていたのではないと分かり、ほっとした。しかし、「おかしくない」という意見が過半数を越えたら、目配りを目くばせと言ってもレギュラーな言い方となるわけです。言葉は生き物で、時代とともに変化してゆくものですから。
ネットは誰もが気軽に発信でき、放送法などの縛りがない分、かなり自由な発信が可能。その一方、これまでのメディアのように、放送作家などの文章を書く専門家が書いているわけではなく、また、校閲などのフィルターを経ていないことがほとんどで、イレギュラーな表現がまかり通ることになっているように思います。それで人によっては、不信感や誤解が生じさせたり、その主張することを理解しようとする前に、忌避したり嫌悪を覚えさせたりするおそれがあるのも否定できません。通じれば良いのではないか、ウルセーこと言うななどと言う人たちもいます。しかし、やはり逸脱しすぎたイレギュラー表現は、時として、伝える・理解することを妨げることがあると考えるべきでしょう。言葉への感受性は人それぞれだからです。
今、私がすぐに思いつくだけでも次のような例があります。すべていわゆる識者とかジャーナリストとかコメンテーターと言われている人たちのイレギュラーについてです。
「天気は雨です」と「天気は雨になります」は区別してほしい。
「ほぼとほぼほぼ、関係と関係性、スケジュールとスケジュール感の意味は違うので、正確に使い分けてもらいたい。」
「上意下達とか悪口雑言などは正しく読んでほしい。」
「すべからくは"すべて"の意味ではない !」
「『…と思っていて、なので…と思っていて、なので…』という言い方は、仲間内(うち)の言い方であって、公的な場面では聞きたくない。」
「重要なお知らせですと、お知らせになりますは混同しないで使ってもらいたい。」
「問題点が3個あります。」なんて、日本語は他言語に比べて助数詞に富んだことば(こちらへ)なので、大切にしてほしいと思う。「ぶた」は一個ではなく一匹・一頭です(『赤ちゃんパンダは「匹」か「頭」か』はこちらを)。
意図的にくずしているなと思わせる場合もありますが、TPOを考えるのも表現のキモ。
特に言葉遣いに神経質な方ではないと思うが、ネットのコンテンツを視聴する機会が多く、言葉は変化するものとは知りつつも、やはり気になってしまうことが多く、コンテンツの内容から気がそれることがある。
ことばづかいは時代を越えたテーマであり続けるようです。
【参考動画】
超訳マンガ百人一首物語
第六十二首(清少納言)
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この動画についての記事はこちらです。
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