花山天皇の退位
「大鏡」
~藤原兼家親子による
陰謀・暗躍、仰天の裏事情 !
冷泉帝(れいぜいてい)と懐子(かいし/ちかこ)の間に生まれた皇子。外祖父は藤原伊尹(これただ) 。摂政であった伊尹の威光を背景に、誕生10カ月足らずで皇太子となり、984年17歳の時即位。ただし、即位時には伊尹 は死去しており、有力な外戚(がいせき)をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。好色や奇行に関するスキャンダルが伝えられています(こちらを)。その一方、『拾遺和歌集』を親撰したり、絵画・建築 などの芸術的才能に恵まれた方であったようです(こちらを)。41歳の時薨去(こうきょ=皇族などの貴人が死去すること)。残されたスキャンダラスなエピソード、反対勢力の悪意によって誇張された面もあるととらえるべきでしょう。
在位中実権を握っていたのは帝の外舅(がいきゅう)藤原義懐(よしちか)と乳母子(めのとご こちらを)藤原惟成(ふじわらのこれしげ)でした。その政策は、荘園整理令(こちらを)や武装禁止令・貨幣流通の活性化・地方行政の改革など革新的なものでした。特に、荘園の規制など利権を侵される関白藤原頼忠や兼家が反目し、花山天皇の退位によって事態を有利にしようとしていました。そのような背景があって、頼忠・兼家は花山天皇を退位に導いていったようです。
花山天皇の退位(大鏡)現代語による縮約
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花山天皇には複数の女御(こちらを)がいましたが、なかでももっとも寵愛する忯子(しし/よしこ こちらを)が、花山天皇の子をおなかに宿したまま亡くなります。享年17歳。花山天皇は18才、悲嘆にくれているのを利用して、藤原兼家・道兼は出家させようと画策します。出家するとは俗世間と縁を絶ち仏道修行の道に進むことであり、すなわち、皇位から離れることとなるわけです。道兼は花山天皇が出家したら、自分もともに出家してお仕えしますと言って、巧みに花山天皇を出家に導いていきました。花山天皇と忯子は、『源氏物語』桐壺の巻での桐壺帝と更衣のモデルとなっているとも言う研究者もいます。
花山天皇退位の謎
次の帝は、花山院の天皇と申し上げ、冷泉院の第一皇子です。永観二年八月二十八日、即位なさいましたのは御年十七歳。寛和二年六月二十二日の夜、こっそりと花山寺にいらっしゃって、ご出家、入道なさってしまわれたのは、御年十九歳。ご在位は二年。ご出家ののち、二十二年間ご存命でした。
出家をためらう花山天皇
花山天皇がご退位になった夜、清涼殿の藤壺の上の御局(みつぼね)の小戸(こど)からお出ましになったところ、有明の月がとても明るく出ておりましたので、「あまりに明るくて人目につきそうだなあ。どうしたらよかろうか。」と仰(おお)せになったのですが、「だからといって、ご出家を中止あそばすわけにはいきません。(皇位継承のあかしとなる)神璽・宝剣(しんじ・ほうけん)もすでに皇太子のもとに移っておしまいになったからには。」と、粟田殿〔藤原道兼〕がせきたて申し上げなさいました。と申しますのは、その神璽・宝剣は、なんと、粟田殿〔道兼〕がすでにみずから皇太子にお渡しなさっていたのです。
出家をせかす粟田殿
明るい月光を、気がひけることだと(帝が)お思いになっているうちに、月の面にむら雲がかかって、少しあたりが暗くなっていったので、花山天皇は、「私の出家は成就(じょうじゅ)することだなあ。」と仰せになって、歩き出されますうちに、(故)弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご = 忯子)のお手紙で、平素お破り捨てにならずに御身から離さず御覧になっておられたのがあったのをお思い出しになって、「ちょっと待て。」と仰せになって、それを取りにお入りになりました。そのときですよ、粟田殿〔道兼〕が、「どうして、このように(未練がましく)お考えになってしまわれるのか。もしただ今この機会を逃したら、おのずと支障もきっと出てまいりましょう。」と、うそ泣きなさったとはね。
奸計(かんけい)に気づく花山天皇
花山寺にご到着になって、花山天皇がご剃髪(ていはつ こちらを)になったあとになって、粟田殿〔道兼〕は、「このまま、私は退出して、父大臣〔兼家〕にも、(私の)出家前の姿を、もう一度見せ、こういう事情とご報告申し上げて、必ずまた参上し、剃髪出家しましょう。」と申し上げなさいましたので、花山天皇は「私を、だましたのだな。」と仰せになってお泣きになりました。いつも、粟田殿〔道兼〕は自分も出家しお弟子として(花山天皇に)にお仕えしましょうとお約束なさっていて、うまくだまし申し上げなさったことは、おそろしいことですよ。
道兼自身が出家させらることがないよう、ひそかに警護
東三条殿(兼家)は「もしや、粟田殿〔道兼〕が花山天皇とともに出家なさることがあるのでは」と心配なので、それ相応の分別のある人々で、だれそれという優れた源氏の武士たちをお見送りの警護にお付けになっていた。その者たちは、京の内は隠れて、加茂川の堤のあたりから姿を現してお供申し上げたという。花山寺に着いてからは、「もしかして、無理矢理に誰かが粟田殿(道兼)を出家させ申し上げるのではないか」というので、一尺くらいの刀を手に手に抜きかけて、粟田殿(道兼)をお守り申し上げたという。
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陰謀・暗躍・奸計による退位
即位してわずか2年で退位、そののち22年存命であった…健康面には問題はなかったと印象付けようとしているようです。また、「みそかに(こっそりと)」出家したとも書かれていて謎めいています。つまり、読者に、花山天皇の退位に唐突感や不自然な印象を与え、退位の真の事情に関心を持たせようとしているわけです。巧みな語り口です。
出家を決意したとはいうものの月が明るすぎると言ってためらったり、故弘徽殿の女御(忯子)の手紙を取りに帰ろうとしたりして、心は常に動揺しています。その天皇をともかくはやく花山寺(こちらを)へ送り届けてしまう役目を遂行している藤原道兼(粟田殿)は、気が気ではありません。「(ご出家を)中止あそばすわけにはいきません。」と断定的に言ったり、「そら泣き」をしたり、演技力を発揮しています。そして、花山天皇の出家を見届けると、見え透いた嘘をついて、その場からずらかってしまう。十九歳の花山天皇は、そこでようやくペテンにひっかかったことにお気づきになって「我をばはかるなりけり(私をだましたのだな)」と言ってお泣きになるのでした。藤原兼家(大臣)が外戚(天皇の母方の親族)となり、摂政・関白として権力を手中に収めるための巧妙な罠(わな)と、その犠牲者の悲劇的な結末がリアルに描かれていることになります。
おそらく、公家たちの間でひそかに広まっていた数々のうわさや、作者が権力中枢にある人や関係者から直接聞いた話などを材料に組み立てられていると思われますが、私たちはまるで映画や動画を見ているかのように読み進めています。作者の並々ならぬ技量によると思わずにはいられません。
花山天皇は退位後22年存命41歳の時薨去(こうきょ=皇族などの高貴な方が死去なさること)、死因は悪性の腫瘍(しゅよう)によると言われています。
「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がまたかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
「大鏡」は、約百九十年の摂関政治の裏面史を批判的に描きだしていて、「枕草子」などの女流文学者が表の世界を描いたのに対し、「大鏡」は裏の世界を描いたともいえます。作者は未詳(みしょう)でいろいろと推測されているようです。権力中枢やその周辺にある人であることは間違いないのでは。藤原氏を中心とした権力闘争の実相を冷静に、しかも、いきいきと描きだしています。秀逸なストリー・テーラーだったようです。
参考動画「大鏡」
「つらをやは踏まぬ(大鏡)~道長豪語、"公任 ? つらを踏んづけてやるさ ! "」もどうぞ。こちらです。
「きも試し/道長の豪胆(大鏡)~新しい理想の男性像」もどうぞ。こちらです。
「関白の宣旨/女院と道長(大鏡)~道長への関白宣旨、姉女院の暗躍」もどうぞ。こちらです。
「若宮誕生『紫式部日記』~道長絶頂のひとこま、紫式部の本音」もどうぞ。こちらです。
💚💚💚こちらも、おすすめデス💖💖💖
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