三船の才
「大鏡」
~道長に多才を賞賛された公任だが… !
藤原公任(きんとう)とは
平安時代中期の公卿(くぎょう=こちらを)。関白太政大臣(こちらへ)という最高位までのぼつめた藤原頼忠(よりただ)の長男。母は厳子(たかこ/いずこ)女王。いっぽう、父頼忠は外戚関係を得ることはできず、その子公任(きんとう)の昇進は思いにまかせず、権大納言(こちらへ)どまりでした。和歌・漢詩・管弦のいずれの道にも秀逸、三舟(さんしゅう)の才・三船の才とうたわれました。「三十六人撰」・「和漢朗詠集」を編集、歌論書「新撰髄脳」、有職(ゆうそく)書「北山(ほくざん)抄」などの著作を残し、後世の詠歌や歌学に影響をあたえ、現在では国文学の研究の対象ともなっています。次に述べる藤原道長とは同年齢でした。
藤原道長とは
藤原兼家(かねいえ)の五男。娘を次々と后に立て、外戚(がいせき=母方の祖父)となって内覧・摂政・太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめました。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば(この世を私のための世と思う。欠けたところなく、なにごとも意のままになるのだから。)」と詠ったのはよく知られています。一条天皇の后となった娘の彰子(しょうし)に仕えたのが『源氏物語』を書いた紫式部〈むらさきしきぶ こちらを〉です。
「三舟(三船)の才」(『大鏡』)を現代語で
三舟の才(大鏡)原文・現代語訳はこちらへ
ある年、入道殿(道長)が大井川で舟遊びを催された時、漢詩文の舟・楽器演奏の舟・和歌の舟の三つに分けて、それぞれの専門の道に優れた人をお乗せになったが、大納言殿(藤原公任)が参上なさっていたのを見て、入道殿(道)が、
「大納言殿(公)はどの船にお乗りになるのだろうか。」
おっしゃったところ、大納言殿(公)は、
「和歌の舟に乗りましょう。」
とおっしゃって、その舟中でお詠みになった歌なんですよ、
小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき
(小倉山と嵐山から吹き下ろす風が寒いので、紅葉の葉が散りかかって、舟遊びをしている人で、色鮮やかな錦織の着物を着ない人は一人もいないことだ)
自分から進んで和歌の船にお乗りになっただけのことはあって、すばらしい歌をお詠みになったことですよ。大納言殿(公)ご自身もおっしゃったところでは、
「漢詩の舟に乗ったほうがよかったのかな。そこでこの歌と同じくらいの漢詩を作っていたら、ひときわ名声を博したでしょう。残念なことをしましたよ。まあ、それにしても、入道殿(道)が、『どの船にお乗りになるのですか。』とお尋ねになったのは、我ながら得意な気持ちになりましたよ。」
とおっしゃっとかいうことです。まったく、一芸に秀でることさえとてつもなく困難なのに、大納言殿(公)のように諸道にこの上もなく卓越していらっしゃったのは、昔も例がないことです。
三舟の才(大鏡)原文・現代語訳はこちらへ
優れたストリー・テーラーが描く公任
「三舟の才」は、次の三つのエピソードから創り上げられていると考えられます。
① 藤原道長が、漢詩の舟・管弦の舟・和歌の舟と分け、それぞれの道で第一人者をそれぞれに乗せて、作詩、演奏、詠歌させる風雅な催しを行ったこと。
② 「小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦(にしき)着ぬ人ぞなき」は藤原公任(きんとう)の歌であること。
③ 道長が公任(きんとう)の多才多能をほめたことがあり、それを公任が得意に思うというようなことを言ったこと。
この三つのエピソードを組み立てて、「小倉山」歌の詠まれた背景が語られていることになります。一の人(いちのひと=摂政・関白の別名)道長によって主催された豪華な三舟の遊びという晴れ舞台で、その道長にいずれの才能も秀でた人とお墨付きをもらったうえで、みずから選んだ〈和歌の船〉で詠まれたのがあの「小倉山」歌であった。公任(きんとう)は、「漢詩の船に乗って、あの歌と同じくらいのできの漢詩を作っていたら、世間での名声はひときわまさっていただろう」と言いつつも、道長に「どの船に乗るのか」と尋ねられたことを得意そうにしていた、というストーリーとしている。
なお、漢詩で評価されたほうがよかったというのは、貴族社会で漢詩がしめる地位が、和歌よりまだ高かったからと考えられます。それなら初めから「漢詩文の舟」に乗ればよかったのではないかとも思われますが、この点については、漢詩にふさわしい和歌を配した公任編『和漢朗詠集』の評価に重きを置いていた作者の付会と言っていいセリフではと思われます。
同年齢の道長と公任、若いころは道長は将来性も才能も公任には足もとに及ばないことを父兼家が嘆いたとされています(こちらを)。しかし、ここでは、両者の立場は見事なくらい逆転しています。公任がすぐれた歌人であればあるほど、政治権力をあきらめざるを得ない者の生きる道を、どの船にお乗りになりますかと言われたことを誇りに思うという言葉に見出してしまいます。
いずれにしても、『大鏡』の作者の筆さばきの巧みさに感心させられます。
名歌とか名作とされるものは、それにふさわしい外在的背景が影響されることが強い。「小倉山嵐の風の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき」という歌は、「あらし」を地名「嵐山」と強く吹く風「嵐」の掛詞として使い、紅葉吹き散る美しい景色を舟遊びする人たちが色鮮やかな錦の着物を着ているという見立てによって、いかにも古今集正統らしい趣向で詠まれた秀歌です。
いっぽう、この秀歌は次のような背景があったからこそ名歌として残っているのではないでしょうか。まず、一(いち)の人(こちらを)道長が和歌・漢詩文・管弦の第一人者を招いて行われた、この上もなく晴れやかな催しで詠まれた歌であるということ。また、当時の貴族社会で尊重されていた三つの才芸の舟が仕立てられたというおもしろさがあります。そして、大井川・小倉山・嵐山という名高く親しみのある歌枕(こちらを)が加わることで、名歌の地位へひきあげたといえるでしょう。このように、歌、もっと言えば芸術作品の評価は、その歌や作品自体が優れているだけではなく、それが作られた事情や背景も重要であるという事ができます。
「大鏡」とは
摂関政治(こちらを)の絶頂期を過ぎたころ、過去を振り返る動きが起こり、〈歴史物語〉(こちらを)という新しい文学ジャンルが産まれました。
それまで歴史は「日本書紀(こちらを)」のように漢文で書かれましたが、十一世紀中頃かなで「栄華物語(こちらを)」が書かれ、続いて、十二世紀に「大鏡」がかなで書かれました。
「栄花物語』は藤原道長賛美に終始していますが、「大鏡」は批判精神を交えながら、歴史の裏面まで迫る視点をも持ち、歴史物語の最高の傑作といえます。
中華の正史の形式紀伝体に倣(なら)って書かれています。二人の二百歳近くの老人とその妻、それに若侍という登場人物との、雲林院(うりんいん、うんりんいん。こちらを)の菩提講(ぼだいこう。こちらを)での会話を筆者が筆録しているというスタイルで書かれています。これもそれまでにない独創的な記述の仕方で、登場人物の言葉がその性格や場面に応じており、簡潔で躍動的、男性的な筆致と相まって、戯曲的効果を高めているものです。
「大鏡」は、約百九十年(語り手の世継の年齢とほぼ一致)間の摂関政治の、表側からは見えない歴史を批判的に描きだしていて、「枕草子」が正の世界を描いたのに対し、「大鏡」は負の世界を描いたともいえます。
「つらをやは踏まぬ(大鏡)~道長豪語、"公任 ? つらを踏んづけてやるさ ! "」もどうぞ。こちらです。
「弓争ひ(大鏡)~道長と伊周、ライバル意識の火花」もどうぞ。こちらです。
「きも試し/道長の豪胆(大鏡)~新しい理想の男性像」もどうぞ。こちらです。
「花山天皇の退位(大鏡)~陰謀・暗躍・奸計による退位」もどうぞ。こちらです。
「関白の宣旨/女院と道長(大鏡)~道長への関白宣旨、姉女院の暗躍」もどうぞ。こちらです。
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