十訓抄(じっきんしょう)とは
鎌倉時代に成立した説話集。年少者のために、「第一 人に恵を施すべき事」をはじめ十項目の徳目をあげ、各編にふさわしい説話を列挙した。儒教色が強い、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の、実際的な啓蒙(知識を与えること)書となっている。
行成と実方について
行成…藤原行成。権大納言(ごんだいなごん)まで昇進。多才有能で、また、書に堪能(たんのう)で小野道風・藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟(平安中期の三人の書道に傑出した人)の一人に数えられた。
実方…藤原実方。左近衛将監を経て、侍従、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と順調に昇進する。左近衛中将に叙任され公卿の座を目前にするが、長徳元(995)年正月に突然陸奥守に左遷される。中古三十六歌仙(「歌仙」は和歌に優れた人)の一人。勅撰和歌集に64首入集する著名な歌人。
忍耐の大切さ
「忍」に耐えられないで行動を起こした実方と、「忍」の徳目に従ってふるまった行成との、二人のその後の運命が、因果応報的に典型的に描かれた説話となっている。
なぜ実方が行成に対して立腹(りっぷく)していたのかはここでは不明だが、これにかかわるような話が『撰集抄』にある。
殿上人(てんじょうびと)たちが東山に花見に出かけた時、急に雨が降ってきて、人々はあわてた。実方は、慌て騒がず、桜の根元に行き、「桜狩り雨は降りきぬ同じくは濡るるとも花のかげに宿らむ(桜狩にきて、雨が降ってきた。どうせ濡れるなら、桜の木陰にいようじゃないか)」と詠んだが、着物が絞っても絞れないほど濡れてしまった。人々は実方の風流さを誉(ほ)め、帝にもそのことをお話し申し上げた。その時蔵人頭(くらうどのかみ)であった行成は、「歌はおもしろし。実方は、をこなり。」と言った。歌の趣向としてはおもしろいが、それを実行するなんて愚かな者だ。それを実方は伝え聞いて恨みを抱くようになったという。
そういう事情があったのなら脈絡はつく。ただし、そこでは行成がすでに蔵人頭であったとするので、「忍」によって昇進したとする話とは矛盾することとなる。
実方は、死後、転生して雀(すずめ)になったといわれている。霊となり加茂川の橋に現れたとも語られていたらしい。
さまざまなうわさ話や憶測がまことしやかに語られ、聞いた人なりに解釈され伝承されていくうちに、そのうちの一つが文字として記録され定着していったものだろう。現代のうわさ話や週刊誌記事などと通じると言えようか。
行成、実方のために冠を 問題解答(解説)
問1 こそ
(それぞれ後にある「ね」「しか」=助動詞・已然形に気づく。係り結びとなっています。)
問2①とのもづかさ、③こじとみ、④落ち着いている(思慮分別がある)
問3 いきなりかぶっている冠を打ち落とし、小庭に投げ捨てられるような乱暴な仕打ちを受けるわけを聞き申して
(「いきなりかぶっている冠を打ち落とし、小庭に投げ捨てられるような乱暴な仕打ちを受けるわけを」が8点、「聞き申して」が2点。)
advanced Q.
1 解答例… 行成が反論・反撃するものと考えていたが、平然と礼儀正しく対応されたため、間が悪くなりいたたまれなくなったから。
(「しらく」は、間が悪くなるの意だが、文意から推測する。行成を侮辱したのに、平然として冷静に対応されたことへの反応。)
2 解答例
(1)陸奥守へ降格(左遷)すること。
(2)実方は歌人として著名な人であったから、歌枕を見て来いという名目を付ける意図。
(「歌枕」とは、歌に詠まれる地名・名所。例えばカラフルなモミジが美しい「竜田川」のように、特定のイメージと結びついて用いられた。「陸奥国」は「安積の沼」「白河の関」「塩釜の浦」「末の松山」などが有名。藤原実方は勅撰集に60首以上入集する、著名な歌人。ここではその歌人実方を降格するのを婉曲にいうもの。)
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